優しい幽霊
まほろは最近、時々記憶が薄れることがある。決まって日中の辛い時、悲しい時だ。
幽霊に庇われ、甘い慰めの言葉をかけられると頭が朦朧して、夢を見ているかのような気分にさせられる。そうすると、いつのまにか肉体は納屋に戻っていて、愛しく冷たい肩にもたれ掛かって眠っていたことに気付くのだ。
幽霊は日が暮れるといなくなる。本来は逆のことに思えるが、日課なので今では当り前だ。だから一人ぼっちの夜が恐ろしくて、早く朝が来て欲しいと願わずにはいられない。あの優しい声で起こして貰えるのを待っている。
ひどい疲労感が抜けきれぬまま、まほろは見慣れない空間で目を覚ました。
屋内で、風はない。まるで小鳥のように木製の格子に閉じ込められ、まほろは眠っていたのだと改めて実感する。
チクチクと荒れた古い畳は埃っぽく、ところどころ爪で引っ掻いたようにえぐれた部分がある。あまり何でできたかのかは考えたくないが、古びたしみもあった。
頑丈そうな木の格子の向こう側で開けっ放しの襖の先から日光が届いているのか、納屋と同程度には明るい。
両腕と胴体を赤い紐できつく縛られ、自由に動くことができない。なんとか上半身だけ起き上がっても、そのままでいることも難しく、もはや気力もなくなってくる。
「幽霊さん……」
明るい時間だというのに、いつも近くにいてくれる彼が現れない。いや、見えていないだけなのかもしれない。かすかに届く花の香に、格子の外から僅かに冷気が漂う。
明後日と父の放った言葉が耳に蘇る。幽霊と共に過ごす時間が昨日で最後で、それからまた夜が明けたので、明日でこの命も終わるのだ。
せめて名前を聞きたかったと後悔する。まほろにとって、これは最初で最後の淡い恋だった。
死人に対してそんな気持ちを抱くなど、ましてや神を差し置いて恋愛など酔狂にも程があるが、行動や声に出す言葉とは違い、感情ばかりはどうにも抑えられなかった。
だが、もう諦めなければ。
まほろは十分すぎるほど幸せな時間を過ごしてしまった。
榮によって、背負った罪の重石が少しだけ軽くなり、あろうことか自分の幸せも
期待してしまった。短くとも、明日の幸せを期待して過ごす時間は本当に充実したものだった。
まほろは龍神の元へ嫁ぐ。もしかしたら、いいや恐らくは龍神にも必要とされずにただ死ぬだけなのだが、噂では屋敷の外でめでたいことが続いているらしい。
畑の実りはよく、産まれた家畜も無事に育っている。まほろに食事を分けてくれていた厨女の老女は、とうとう孫が懐妊したそうで、厨から長生きはするもんだと笑い声が聞こえた。
下女の中でもあまりまほろに構わず、こっそりとお下がりの着物をくれていたハツは、幼馴染である反物屋の息子と恋仲となって出ていったそうだ。
幸運が続くのは、龍神が新しい贄姫を気に入った証と皆が噂するのを、まほろの耳にも届いていた。
だが、元久と唯華は体調を崩しているそうで、心配ではあるが、心配をしていることすら嫌がられそうだと思ったまほろは、なるべく考えないようにしていた。
監禁され、縛られている辛さから、また幽霊を呼ぼうとし、しかしなんとか言葉を呑み込む。そんなまほろの耳に、足音が響いた。
何かを探し回っているのか、ずっと格子の向こうを行ったり来たりして、壁を叩いたり、引っ掻いたりもしている。
この音だけ聞いていると少し不気味かもしれない。だが、まほろはもう死者の霊などあまり怖くない。その正体が彼となんとなく確信している。
――私を、探してくれているの?
格子から手だけでも出せれば、幽霊はまたまほろを見付けるかもしれない。だが、縛られているし、それにもう終わりにしなければいけないのだ。
一生懸命まほろを探す彼を可哀想に思うが、まほろは目を閉じて、別れの決心をする。
「私は、龍神様にお会いできるのでしょうか。お会いできたら、まずはお詫びをしないと。贄姫に選んで頂いたのに、好き勝手して、はしゃいでしまったことを……」
まほろを探す音が激しさを増して、襖がカタカタと揺れだす。木の格子も轢んで、拳でドンドンと叩くような音もした。歩き回る音はどすどすと早く、重くなり、酷い耳鳴りがする。
あの穏やかな幽霊がこれほど足音を立てて歩くなど、きっとかなり怒っているのだろう。
彼はいつもまほろを気にかけ、小さな怪我にも狼狽して神に祈れと言う。お供え物と言って差し出す食べ物は遠慮してほんの少ししか口にせず、どうせこれから死ぬまほろに、たくさん食べろと背中を撫でてくれた。
怖いこと、悲しいことがある度に抱きしめてくれたり、伸ばしっぱなしの傷んだ髪を撫でるように梳かしてくれた。
まほろが父や兄に会わぬようにと気にかけて、逆に榮や厨女、一部の親切な下女、下男の日々の様子、噂話を話すとゆっくり相槌を打って聞いてくれた。
花を眺め、雲を追い、風を浴びて気持ちが良いという、何気ない日常の幸せを共有してくれる、優しい男だった。
そんな人を、まほろは怒らせたくない。ずっと優しく温かい記憶だけを胸に、彼の代わりに亡者の国に消えてしまおう。
まほろは這いずって、すぐ外にいるであろう幽霊に声が届くよう、格子に寄りかかった。
「幽霊さん、今まで、ありがとうございました。私は、もう大丈夫です」
ぴた、と音が止んだ。
まほろも泣くことをやめた。




