蔓延
怪異は屋敷の中に、まるで伝染病のごとく蔓延した。
ほんの数日の間に元久、唯華と数人の奉公人、客としてやって来た者にも一部怪異は現れた。
だが、それは現れただけなのである。
凄まじい死臭と共にそこにある、やたらと体の長いそれは、まるで人の動きを見張っているようだった。
元綱は神事を執り行なう宮司、伏川を呼び寄せ、連日の出来事が祟りによるものなのかを確認することとした。事前に伏川にはこのことは告げておらず、何も知らぬ彼は屋敷に入った途端、一部の全く被害にあっていない者らと同様の言葉を口にした。
「おや、これは何の花の香りでしょう? とても良き香りでございますなぁ。はは、最近は天気の良い日も続いて、龍神様も新しい贄姫様に大変お喜びになられていらっしゃるようだ」
花の香など元綱にはしない。それどころか、日に日に屋敷中で何かが腐敗したような酷い悪臭が増すばかりだ。今も元綱の鼻には水が腐ったような臭いがついて回っている。
「贄姫様のご体調はいかがですかな? いつかの贄姫様は、直前になって病が完治したそうですが」
「嫁入りを控えて、思うことがあるのか、どこかに引きこもっているようだ。年頃の娘ともあれば、よくあることだ……で、宮司殿、うちに何か……例えば贄姫を狙う不届きな物の怪など見えぬか?」
「物の怪にございますか? はて……贄姫様のおられる住居は、龍神様のご加護がつくはずでございますよ。私の曽祖父の日誌にもそのように記載が……それに、お屋敷の空気は淀みなく澄んでおられますし……」
役立たずめ。
しかし一つだけ収穫はあった。
まほろは今あの納屋にいる。だから龍神の加護が母屋に届いていないのだ。納屋だけが守られても意味がない。
龍神にさえ屋敷を守らせれば、あの怪異も流石に太刀打ちできないであろう。
「もし良ければどうぞ、この紐を」
「紐? これはなんだ?」
「古来より伝わる結界の道具でございます。昔、これで悪鬼を囲ったのだそうですよ」
「悪鬼だと」
「ええ。この紐に捕らえられた悪鬼はみるみるうちに弱り、大人しくなると聞きます。まあ、物の怪を縛るなど無理な話ではありますが……お守りにはなりましょう。気休め程度ですが、お札もご入用で?」
元綱は受け取った赤い紐を一瞥し、満足げに笑みを浮かべて伏川に礼を告げた。
「ああ、頼む」
元綱は怪異を初めは信じてすらいなかったが、次々と身内が被害を訴えるので、一度まほろの元へ向かったことがあった。誰しもが口を揃えてまほろに恨まれ、呪われたと言うためだ。
納屋の戸を蹴り、まほろを呼び出すが反応が無い。贄姫に死なれていたら困ると思い、慌てて戸を蹴破って押し入ると、思わず身震いするような寒さの中でまほろが黙々と裁縫をしていた。
なぜ夏を目前に、日に日に日差しも強くなりつつあるのに、この納屋だけは寒いのだろうか。
ふと幼い頃、寝る前に祖母に何度もねだった昔話を思い出した。美しい姫が鬼に取り憑かれ、城下に住む民を皆殺しにした。それを退治しに行った雉太郎が麗しい姫の姿をした鬼に一度は騙されたものの、本性を曝け出し後ろから食らいついてきたことに気が付いて、なんとか討ち倒したという話だ。
子供が想像した鬼の姫を、そのまま頭の中から引きずり出したかのように、まほろは奇しく照る女の姿をしている。貧相で、いつも何かに怯えていた娘が静かに振り返ると、元綱は恐ろしくなって、目が合う前に逃げ出した。
あれは、恐らくもう人間ではないと直感が告げる。
伸びっぱなしの長い髪に色褪せた着物は身窄らしいというのに、肌は陶磁器のようになめらかで白く血の気がない冷たい色をして、ぼんやりと薄暗い影の中でも映えて見えた。
元綱は、まほろが憎い。懲らしめてやろうと贄姫に選んだというのに、逆に人々を呪う邪悪に染まって、のんきに裁縫をしているなど許せなかった。
許せなかったので、怒鳴ったのだ。ふざけた真似をするな、お前などいらぬと叫んだ。
その後から、元綱は元久や唯華らの言う悪臭と、異形の姿を見るようになった。
体の長い人間のような蛇のようなものは夜明けと共に元綱の部屋を訪れ、聞き慣れない言葉をぼやく。その姿はまさに悪霊のそれだ。
風もないのに顔についている紙のようなものがめくれ、傷だらけの悍ましい顔で元綱を睥睨するのだ。
そして夜になると、元綱の歩く床から時々細くて折れそうな無数の腕が伸びるようになった。足を掴まれ、何度か転びかけた。呻き声も聞こえるようになった。
伏川を見送った後、元綱は気味の悪いまほろと霊の姿を思い出して、思わず身震いする。しかし恐怖よりも勝るものが、燃えるような怒りの感情だった。
あの長い人のような霊の気配、悪臭の薄まる夜に、元綱は細い腕を踏みつけ、蹴飛ばしながら、あの紐を持って再び納屋を訪れた。
夜の納屋は不思議と肌寒さはなく、むしろ母屋の方が余程空気が淀んでいるようにすら思う。納屋の地面からも壁からも腕は伸びてこないし、目玉がギョロギョロと物陰で蠢いたりもしない。
奥でみすぼらしく、藁、古びた筵を敷いて眠るまほろを、その狭い納屋から外へ引きずり出し、呼び出した下男と共にあの紐で縛り上げた。
異形の正体はまほろだ。これは人の命を喰らっているに違いないのだ。産まれた時からそうなのだ。これは人を殺して生きる化け物だ。この化け物を腹に宿した琴代の苦しみは計り知れない。
「いやっ!! 助けっ……やあっ、ゆう、れいさんっ……」
「よしよし、可愛い可愛い贄姫様。ああ、お可哀想にな。怖いのだろうな。だがもう大丈夫だ。あと少しの辛抱だ。明後日、ようやく龍神様にお会いできるのだぞ。それまで安全な所にいなさい」
初めてこの娘に優しく話しかけた。義姉を喪う悲しみに心を病み始めた唯華の耳に届かぬよう、大切な儀式を前にして騒ぎにならぬように黙らせたかっただけだ。案の定まほろはぼろぼろと涙を流して嗚咽を漏らし、それ以上言葉を発しはしなかった。
だが、自分だけが不幸なのだというように涙を流し、哀れみを買って男を誘惑しようと泣いているその声も耳障りで、髪を鷲攫みにして軽く揺さぶった。
「ああ、ああ、やかましい。泣くな! 声を出すな!」
琴代とよく似た顔の女が、連れてきた男を誘惑している現実など甘受できない。
金を積み、汚い手まで使って得た最愛の女と自分を混ぜたようなその顔で、その声で、何と罪深いのだろう。早く視界から消えて欲しい。
どうせすぐに白無垢を着させるので、元綱はまほろの薄い寝衣の片袖を破いて、猿轡として口に押し込んだ。
涙で顔を汚し、布を噛んで震える女。元久は目の前の女の何がそれほど恐ろしかったのか、わからない。
そのまま母屋に担ぎ込み、昔痴呆を患った身内を隠した座敷牢にまほろを放り込むと、窒息死させぬように口の中の布を引き抜いて、ぽいと投げ捨てた。物分りだけは良いので、それ以上泣き喚きはしない。
急ぎ座敷牢の木製の格子にベタベタと札を幾重にも貼り付け、嘲り笑う。
まほろは闇に逃げ込むように、灯りの届かない奥の壁まで這って行き、飽きないのかずっと啜り泣いていた。




