正義
それから元久が語ったのは、唯華にとってはあまりにも凄惨な過去だった。
まだ唯華が母、沙耶の腹にいた頃だ。
その時元綱の本妻であった琴代が難産の末に亡くなった。
大量の血を流させて、母を殺して産まれてきた女の赤子に元綱が付けた名前は『まほろ』だった。
以前まではどことなく柔らかく、可愛らしい名前だと唯華は思っていた。
琴代の名も三文字であるが、この村では一般的に女は二文字の名前が多い。
沙耶に鈴、ハツ、榮、トヨ、さき、久……。
唯華も幼い頃までは華の二文字で、ある時まほろという名を聞いて、羨ましくて大泣きして今の名前になったのだ。
華子、花緖などの案もあったが、唯一無二の華やかな娘という意味に惹かれてこれに決めたのだと、今でもよく覚えている。
今までまほろの名の意味について考えたことは無かった。珍しいと思ってはいたものの、込められた思いの重さに吐き気さえ覚える。
凄まじい苦痛に声を上げ、血だらけで息絶えた愛する妻の姿がどうか幻であってほしい。幻のように消えてほしい。幌をかけて悲しみを隠してしまいたい。魂ごと滅びてほしい。それらの願いから付けられたのが『まほろ』だった。
そこまで憎いというのに、優しい父はまほろに衣食住を保証した。本人は仕事もせずに自分のことばかり考えて生活している。そのうえ恩を忘れ、穏やかで愛情深い元久を呪い殺そうとしているのだ。まほろは物の怪に違いない。あれは化け物なのだ。
心の優しい唯華は、それでもまほろが改心してくれるとまだ信じている。
誰にだって善の心、正義があるはずと思っているのだ。
「まかせて、お兄様。正義は必ず勝つのよ。私がまほろ姉様を改心させてみせます」
「ああ、優しいね唯華……お、俺は、俺はいいい井戸、井戸を見張っているから、頼むよ、唯華。まほろは、あっちの、あああの、あの納屋にいるらしい」
強い足取りで唯華は元久の言う通りの方向へ向かう。なぜ井戸を見張る必要があるのかわからないが、恐らく度々あの場所で彼女が水遊びをしているからだろう。
他人の痛みは、痛みを経験しなければ理解できないと唯華は思う。唯華が転んだ子供に手を差し伸ばしてやるのは、自分が転んだ時にそうして欲しいからだ。
まほろも兄のように痛みを知れば、どれほど自分が酷いことをしているのか気付くだろう。
少しして、唯華は人のいなさそうな納屋まで来た。まほろは離れの鍵を貰っていたが、なぜこんな古臭い納屋にいるのだろうか。
不思議に思いながら戸口から中を覗くと、薄暗い中、窓から差し込む光を頼りに針仕事をする背中が見えた。
じめじめと段々暑くなってきたというのに、納屋の中はなぜだか異常に寒い。まほろも色褪せた上掛けを羽織っている。
遠目に見ても、まほろの手は血が通っていないのかと思うほどに白く、しかし髪は唯華よりも艶々と綺麗に見えた。
「まほろ姉様」
もしかしたら意地悪を言われるかもしれないと構えながら、唯華は勇気を振り絞って声を出した。すると、驚いたのか肩をびくつかせ、幽霊のように蒼白い顔がこちらへ振り向いた。
異様なほど寒い中、病気か何かかと思うほどに白い女。その不気味さに苦笑いする。
「ゆ、唯華さん……どうして、こんなところに……」
「お話があって来たのよ。ここ、なんだか寒いわ。お部屋に戻ってお茶でも飲みましょう」
「……お部屋?」
「だって、離れの鍵を貰ってらしたでしょう?」
「あの鍵は、ここの……納屋の鍵だったのです……その、私は、お部屋を頂くような……」
「嘘よ。だってこの納屋には鏡台も何も無いもの」
「それは……私が手鏡しか、持っていなくて……お恥ずかしい話ですが、本当にここが私の部屋なのです」
信じられるわけがない。
外と変わらないこの部屋で、一体どうやって暮らすというのだろう。
「嘘はいけませんよ、まほろ姉様。単刀直入に言います。お兄様の呪いを解いてください! 今ならまだ間に合います。これ以上悪いことをしてはだめだわ」
唯華の言葉にまほろがまるで白を切るように頭を傾げる。唯華はこちらの様子を伺うようなまほろに、血が沸騰したかのように熱くなった。まほろは人の命がかかっているのに、わざと知らないふりをして嘘に嘘を重ねようとしているのだ。
「どうしてこんなことをするの! あなたはやっぱり化け物だわ! 人を殺して平気なの?」
「っ……お母様には、本当に申し訳なく思っています。私なんか、産まなければ……」
「ならどうしてお兄様まで狙うのよ! 最低だわ! お兄様が死んじゃったら、私、私!」
「お、お兄様が? どこか、悪いのでしょうか?」
「どこかって……悪いに決まっているでしょう? お兄様が死んじゃったら、跡継ぎは誰になるの? まほろ姉様は贄姫だからすぐいなくなるし、もう関係ないって思ってる? お兄様は貴女と違って生きていないとだめなのよ!?」
――許せない、許せない、許せない許せない許せない許せない!!
唯華は、座ったまま縫いかけの反物を抱くまほろに詰め寄る。自分の大切な正義が歪まされていることに、衝動的に平手を振り翳した。まほろはきっと他人の痛みがわからないのだ。名誉ある贄姫に選ばれたから、どうせ死んでしまっても神様に愛して貰えるから、きっと調子に乗っているのだ。
自分が罰さなければ、まほろは神様の前でも調子に乗ったまま、嘘を繰り返し、多くの人を傷付けるに違いない。
この期に及んで縮こまってか弱そうなふりをするまほろに、唯華は力いっぱい手を振り下ろす。押し寄せるのは正義と断罪を全うする快感だ。
しかし、唯華の手はまほろの顔どころか、髪一本にも触れずに固まってしまった。
「っ、うう、えっ?」
唯華の腕を誰かが握り、制したのだ。
だがそんな者の姿は見えない。
「何? 何なのよ!」
腕に纏わりつく何かを振り払い、その勢いでまほろの腕の中の布を引っ掴み、数ヶ月年上のくせにか細く小さなまほろを引き倒そうとする。すると、布だけが唯華の爪に引っかかってビリリと破けてしまった。
どうせ作りかけの、安い反物で出来たものだ。頑丈に縫わないまほろが悪いに決まっている。今まで自分の名で寄付して来たことが恥ずかしい。
「あっ、や、やめて……」
唯華は被害者、弱者のふりをして泣き始めたまほろが許せない。こうやって他人に漬け込んで、人殺しまでする外道を許せるはずがない。
奪い取った布を引き裂いて、その感触に怒りを鎮めていく。冷静にならなければいけない時、物を壊すのは最も手っ取り早い方法だ。
「あ、ああ……」
これで少しは罰になっただろうか?
それならば一石二鳥だ。
踏み付けた布切れを取り戻そうとするまほろを見下ろし、唯華は勝利した喜びに笑った。
悪を成敗した快感は計り知れない。
ふと人の気配を感じ、戸口に立つ者に視線を向ける。
そこには、震えるほど冷たい目をした榮が立っていた。




