住家
まほろは人肌くらいに冷めた湯を汲取って湯浴みをし、湯殿を掃除してから急いで立ち去る。濡れた髪を結い上げ、寝衣を纏う姿を他人に見られるのは恥ずかしいことだと幼い頃に教わったからだ。
日が暮れてしまうと、まほろには味方と呼べるものがあまりいない。だから、幽霊に出会う以前の頃のように焦躁した顔、足取りで納屋へと飛び込む。
――良かった。お父様にもお兄様にも、唯華さんにも会わなかった……。
屋敷にいる間は執務室か自室、他はだいたい外へ出ている父親、わざわざまほろを自分から探しに来ない唯華はともかく、まほろは兄、元久に出くわさないことに違和感を感じる。
あの見合いと言っていた日から、日中だというのに元久を見かけることがなくなった。
まほろにとっては良いことだが、跡継ぎである彼に何かあったとすれば心配にもなる。
だが近く、まほろは贄姫として役目を全うするのだ。その後上手く龍神に尽くせば祟りは起きないし、贄姫を選出された家は富むと言われている。だから何も心配はいらない。
干した藁の上に広げた筵に横になる。上掛けに包まっていると、最近は寝付きが良く、すぐにぐっすりと眠れる。
初めのうちこそは納屋で眠るなどと思っていたが、ここでは下女たちに気を使わずに済むし、持ち物が壊されたり勝手に無くなったりすることもなく気楽だ。
この日もまほろはあっという間に心地よい夢の中に没んでいく。それはいつになく優しい夢なのだ。誰かがまほろのいる場所を探しているのだが、恐ろしい者ではない。まほろはその者が自分を見つけてくれるのを待っている。
彼に見つけて貰えると、まほろは――
パラパラ、と雨の音でまほろは目を覚ました。木枠の窓の外は薄ら白く、縦に伸びる細い白線がいくつもいくつも、遠く遠い先まで広がっている。
湿気った雨の日の空気を吸い込んでから、まほろは急いで戸口を出た。
「幽霊さんっ! こっちです」
今日も幽霊は納屋の近くに立っている。蒼白く生気のない手に触れようとして、触れられないことに気が付く。
「入ってください、雨宿りに」
見上げると、幽霊は紙を貼り付けた顔でまほろをまじまじと見ているようだった。
さらりと長い髪が彼の肩から一房落ちる。
「入る? お前の家にか?」
「はい、その……小さな納屋ですが、良かったら中に。濡れたらお風邪を召されます」
「まほろはその納屋に住んでいるのだな」
「そうですよ。ふふ、いつも納屋から出てくるでしょう」
「そうか。それがお前の家か……本当に入っていいのか? 俺を入れて、お前は良いのか?」
「もちろんですよ。幽霊さん、早く、濡れてしまいますから」
小走りで納屋の戸口に戻って、どういう仕組みなのか、歩かずに地面を滑るようにしてこちらへ向かってくる幽霊を待つ。手入れをしていないのか、少しもわもわとした黒髪が広がって、顔面の紙もひらひらと揺れている。
戸口の前で一度止まった幽霊の顔の紙が音を立てて激しく揺れ、少し捲れ上がったので、ほんの一瞬だけだったが顔の端の方を見てしまった。生前に何があったのか知らないが、目の下の辺りから頬を通って下に向かう傷跡が見えた。痛そうだと思うが、果たして霊は痛みを感じるのだろうか。
空気が揺れる。まほろは目眩いがした気がしたが、よくあることなので特に気にせず一歩足を踏み出して耐えた。
心臓がドクドクと音を立てる。悪寒とも似ているが、それよりも気恥ずかしさが強い。婚前に、それも夫以外の男を部屋に入れるなんて、何とはしたないことなのかと気付いてしまった。
「まほろ、ここがお前の家か。お前の場所が、ようやくはっきりとわかった」
幽霊が、幽霊らしかぬ音を立てて歩く。下駄の鳴る心地良い音に、まほろは自分の身窄らしい格好が急に恥ずかしくなって、身をすくめてうつ向いた。
「まほろ」
「な、なんでしょう……」
何か大きな感情を噛みしめるように、大切そうに幽霊が声を紡ぐ。
「まほろ、まほろ」
求められているような声に、さらに恥ずかしい気持ちが大きくなって、目をそちらに向けることができない。まるで金縛りにあったかのように、まほろは動けずに幽霊の衣擦れと足音を聞いていた。
「まほろ……」
妙に熱っぽい声だ。肉体、体温の無い体から出ているとは思えない。そして――
ぴと、とさらさらに乾いた冷たい手が、まほろの頬に優しく触れた。
「え……っ」
「まほろ、ようやく触れられる。まほろは、温かくて柔いな」
まほろは自分の犯した禁忌に気が付いた。家の中に入れてはならないモノを入れてしまった。だが愚かなことだが、後悔するのはもっと早くそうしていれば良かったという点だ。
「まほろ、お前のその優しいところを愛おしいと思っているが、密室に男を連れ込んで二人きりというのは、どうかと思うぞ」
「でも、雨が……」
「この世では、俺は濡れない」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
それでも頭を優しく撫でられていると、罪を棚に上げて、自分が無知で良かったと心から思ってしまう。
無知を叱られ、殴られ、踏みつけることなどなく、まるで童女にするかのように幽霊がまほろのしっとりと濡れた頭を、何度も何度も繰り返して撫で続ける。
決して嫌なものではない方の羞恥で真っ赤に顔を染めていると、それに気が付いてしまった幽霊に体をぎゅっと抱きすくめられてしまった。
優しく横に揺さぶるようにぎゅうぎゅう抱き締められ、されるがまま、冷たい体温に身を委ねる。
時々、さっきまで撫でられていた頭に、男の頬が紙をくしゅっと潰すようにしてあてがわれる。頬擦りをされている。
「まほろ、早く俺のものになれ。もう放したくない」
「あっ、あ、だ、だめです、私は龍神に嫁ぐんです!」
つい、愛される喜びに浸ってされるがまま、自分も男の胸に身を預けてしまっていたが、急に悍ましくなって幽霊を押し退ける。
不貞を働いてしまった。神を相手に罰当たりだ。自分のせいで祟りが起きてしまう。
「まほろ、泣くな。泣かせるつもりはなかった……すまない。驚いてしまったか?」
「泣いていません……泣いてないです……」
「泣いておらぬなら、何ゆえに目から水が出るのだ。まほろ、お前のことは俺が守ってやるから、おいで」
「だめです、だめ、だめ」
「そう、あまり拒んでくれるな。まほろ、俺はお前を好いている……ああ、龍が怖いのだな。人の女子が龍を怖がるのはよくあることだ。大丈夫だ、まほろ……龍など気にするな」
この人は一体何を言っているのだろうか。まほろは背筋が凍って、皺のつかない不思議な紙で覆われた顔を見上げる。
「私は、龍神様を悲しませるようなことはしません」
「ああ、わかっている」
「幽霊さんはわかっていません、妻が、自分の知らぬ所でこんなことをしていたら、嫌に決まっています! だから、だめです……」
「……なるほど、そういうものか。確かにそうだな」
ベタベタとまとわり付いて来ていた幽霊の手がまほろを放し、なぜだか愉快そうに笑う。
「まさか……龍を思って泣いているのか? それとも俺を拒むのがつらいのか?」
どちらもだ。どちらもだから、余計に辛くて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
「そういう涙は、なぜだか悪くもないな」
「……幽霊さんは、その……少し変です」
「ふふっ、そうだな。だが、俺に言わせればまほろも妙だ。幽霊に触られて顔を蒼くさせるならともかく、真っ赤にしてしまうとは」
まほろは意地悪を言われているのに、傷を負わないこともあるのだと気が付く。
幽霊の口から出てくる意地悪は、鋭くまほろの心を突き刺したりはせず、むしろ彼を身近な存在と感じてしまうような温かさがある。
「まほろ、雨に濡れぬようにと心配してくれて、ありがとう」
意地悪を言ったことを気にしたのか、すかさず優しく声をかけてくる幽霊に、まほろはぱちりと瞬きをして笑い、頷いた。




