夜が来る前に
集中すると時間はあっという間にすぎる。気が付けば木枠の窓の外に見える空は、うっすらと黄色く色付き始めていた。
納屋にはもともと行灯も無く、小さな油皿しかない。油皿だけでは光が拡散されず、夜になると手元が暗くなってしまうこの納屋で作業を続けるのは難しい。
逢魔ヶ時が訪れると幽霊もどこかに行ってしまうのか、姿が見えなくなるので、まほろは急いで反物を置いて外に出る。
しつこくしたら嫌われるかもしれないと思っても、それでも会いたくて堪らず、付近をきょろきょろと見回していると、視界のすみから蒼白いそれは現れた。
「あの、幽霊さん、お花ありがとうございます。鏡を見て驚きました。風であんなことができるなんて」
「そうか。受け取ってくれたのか。良かった」
「はい、もちろんです……お花なんて貰ったのは、初めてです」
花どころか、まほろは必要最低限のものしか与えられたことがない。まほろが欲しい物はいつも生活するのにどうしても必要なものだ。着物や履物、食べ物、道具……花はそのどれにも当たらない。もちろん髪飾も持っていない。紐でくくりはするものの、着飾る目的のものではなかった。
そんなまほろが、初恋の相手から花など貰って髪に飾られ、喜んでしまうのは当然だ。この者にとっては些細なことかもしれないが、まほろにとっては生まれて始めて想い人から送られた宝物だ。湯浴みの時には外さねばならないが、萎れて、枯れてしまってもずっと、死ぬまでは大切にしようと決めた。
「俺も、場所がまた少しわかった。ありがとう」
時々幽霊はまほろにはよくわからない話をする。それを疑問に思わないわけではないが、柔らかくどこか嬉しそうな声に、言葉の内容など気にならなくなる。それどころか、幽霊の口から発せられた感謝の言葉に、まほろの世界はまるで煌々と天の川よりも眩しく輝き始める。目が眩んで一度瞼を落とした。
すうっと息を吸い、ゆっくりと吐きながら幽霊を見つめると、紙でその顔は確かに隠されているのに、なぜだかにこりと微笑んでいるように見えた。
まほろは幸せと同時に苦しさ、切なさ、もどかしさを感じる。幽霊を好きになればなるほど、きっともっと苦しくなっていくのだろう。別れが辛くなるだろう。
まほろが愛さねばならないのは龍神だ。例え龍神がまほろを嫌ったとしても、供物として、花嫁として神を一番に愛さなければならない。そうでなければ、本当に産まれてきた意味が無くなってしまうし、自分の引き取り手である龍神にも失礼だと思った。
「幽霊さんは、龍神様をご存知ですか? 私は龍のお姿の神様としか聞いていなくて」
幽霊がこの土地に憑いたものならば、何か知っているのではないかとまほろは問いかける。贄姫の披露目の儀をきっかけに彼がまほろを訪ねてくるようになったのだから、何かしら龍神と関係があるのかもしれない。
「龍の絵は見たことがあるか? 大きくて長くて鱗があり、大蛇のようだが手がある。頭には角と毛も生えていたか」
「どれくらい大きいのでしょう」
「そうだな……まほろを一呑みで食べられるほどだろうか」
以前、まほろは一度だけ熊の毛皮を見たことがある。それが人生で見た中で一番大きな生き物だった。だが、それでもまほろを一口でなど食えないだろう。
まほろを一口ということは、納屋の戸口ほどの口があるのだろうか。
それほど大きな体の持ち主の妻が自分のような、小さく貧相な者で問題ないのだろうか?
まほろは今朝貰った握り飯ですらも一口では食べられない。
「では、龍神様からすれば、私はこの親指ほどの大きさなのでしょうか?」
まほろが自分の親指を幽霊の方へ見せる。すると幽霊は唸るような声を出して何か思案し始めた。
「いや、まほろ、蛇を見たことがあるか? 顔の殆どが口なんだ。だから……そうだな、小柄なまほろでも両手で抱けるくらいだろう。だが安心しろ。これは例え話だ。いくらまほろを食べたいほど好きだと言っても、可愛い花嫁を食ったりはしない」
「でも、もしお役に立てるのなら、私は食べられても構いません」
「まほろ……お前は目の前に可愛らしい蝶々が飛んできて、それを食べたりするか?」
「食べません……」
「同じだ。龍神もお前を食べたりはしない」
だがそれはやはり、相手が可愛い蝶々だからではないかとまほろは思う。もし、目の前に握り飯があれば、可愛い形をしていても食べてしまうだろう。
まほろは自分を可愛い生き物とは思えないし、幽霊以外の者がそのように言ってくれるとも考えられない。
だが、すぐに痩せた手首を見て、自分が美味しくすらなさそうだと改めて思い、恥ずかしさに頬を染めた。
「日が暮れる。まほろ、暗くなったら帰ってしっかり眠れ。眠っていれさえすれば夜は終わる」
「……幽霊さんはいつも、夜はどこへ行くのですか」
「行くべき場所だ。すまない、そろそろ行く」
明日も会えるのだろうか。いつまで会えるのだろうか。そんなことばかりを考える。
「そんなに寂しそうな顔をするな。まるで、働きに出る夫を見送る妻のような顔だな」
「そ、そんなつもりは」
「朝が訪れ、お前が現世にいる限りはこちらに来る」
「……はい」
ぼんやりと煙のように透けて消えていく幽霊にまほろは頭を下げた。
別れるのは寂しく、そんな顔も見られたくない。
幽霊の記憶の中にだけはせめて、醜い自分を遺しておきたくなかった。




