第七十五話
リリアはラルフの部屋を飛び出し、ビンセントの部屋へ向かった。
ビンセントの部屋に行くのは日記の件以来だ。
「ビンセント……」
リリアはビンセントの部屋の扉をノックしたが、返事は無かった。
「ビンセント……、いないの?」
リリアは部屋の扉をそっと開けた。
部屋の中は暖炉の明かりだけで薄暗かったが、ビンセントは暖炉の前のソファーに座っていた。
「何だ? リリア。この部屋へは来るなと言っているだろう?」
「……ごめんなさい。薬が欲しかったから」
「何の薬だ?」
「足の……、靴擦れしたところが痛くて……」
「見せてみろ」
リリアが部屋に入ると、ビンセントは部屋の明かりをつけて薬箱を持ってきた。
「ここに座れ」
ビンセントは、自分が座っていたソファーにリリアを座らせ、リリアの足を見た。
「この位の怪我なら、ラルフの部屋にある薬でも良かっただろう」
ビンセントがリリアの足に薬を塗り始めた時、リリアの瞳から涙がこぼれて落ちた。
「どうした? 滲みたか?」
リリアは俯いたまま首を横に振った。
「しばらく靴は履かない方が良いな」
ビンセントはリリアの足に包帯を巻き、薬箱を元の場所へ置きに行った。
「……ありがとう」
リリアが立ち上がろうとすると、
「待て。今お茶を淹れるから、それを飲んで行け」
と、ビンセントがリリアを引き止めた。
湯が沸く間、ビンセントがリリアの肩に毛布を掛けると、リリアの心の中で張り詰めていた糸がプツリと切れて、リリアの瞳から涙が溢れだした。
ビンセントはリリアの目の前にお茶の入ったカップを置き、リリアの隣に座った。
「温かいうちに飲め」
リリアはビンセントの言葉に頷いてカップを手に取ったが、涙のせいで飲めなかった。
ビンセントは深いため息をつき、リリアの手からカップを取ってテーブルの上に置いた。
「……ごめんなさい。やっぱり帰るね」
リリアが部屋を出ようと立ち上がった時、ビンセントはリリアの手を掴んだ。
「リリア。薬のためだけにここへ来たのではないのだろう?」
リリアは扉のある方を向いたまま、黙って首を横に振った。
ビンセントは掴んでいたリリアの手を強く引き、リリアはソファーの上に崩れ込んだ。
「……!」
「なら、何故泣いている」
リリアの目の前にビンセントがいる。
リリアは声をあげて泣き出した。
ビンセントは指でリリアの涙を拭った。
「お前でも、声をあげて泣くことがあるんだな」
ビンセントはリリアの顔を見て、フッと笑った。
リリアはビンセントの顔があまりにも近くににあるので、ドキドキしていた。
「辛い事があるのなら、思いきり泣けば良い。涙はいつか枯れる」
ビンセントはリリアに何も聞かず、ずっとリリアの頭を撫で続けた。
「私、ラルフの気持ちが分からないよ……」
「ああ。俺だって、ラルフが何を考えているのかは分からない。
俺は人間の頃、悪魔など召喚した覚えがなかったのに、いつの間にか目の前にラルフが立っていたからな」
「それからどうなったの?」
「願いを叶えるのと引き換えに魂を売れと言われ、この世界に連れて来られた」
「私はラルフと結婚するためにこの世界へ連れて来られたと思っていたのに……。
ラルフはそのつもりじゃ無かったみたい」
「いや。お前をこの世界へ連れて来た時、お前さえ結婚すると言ってくれれば、結婚するつもりだと言っていた」
「だから私は決心して、人間の世界に別れを告げたし、ラルフにも悪魔になると言った。
それなのにラルフは、悪魔にはならなくて良いって……。
私の事が嫌いになったのかな……」
「リリア。お前がまだラルフを愛していないからではないか?」
リリアは首を横に振った。
「ラルフの事、大好きよ?」
「決心って何だ?
お前は人間の世界にも婚約者がいたな。
そいつの事は好きで結婚しようと思っていたのか?」
「もちろん好きだったわ。
小さい頃からずっと側で私を守ってくれていたし、結婚の約束をしていた」
ビンセントがリリアの言葉を聞いて静かに笑った。
「リリアの言う好きと、愛しているは少し違うな」
「……どう違うのか、分からないよ」
「それは、本当の恋をすれば分かる」
「……」
「リリア、ラルフの部屋へ戻れ。
もしラルフが結婚をしてくれなくて、それでもお前がこの世界で悪魔として生き続けたいと言うのなら、結婚ぐらい俺がしてやる。それなら良いだろう?」
ビンセントの言葉にリリアはドキッとした。
「ビンセント。好きでもない人と結婚できるの?」
「お前はどうなんだ?
居場所が無いから結婚したいだけなのか、本当にラルフと一緒にいたいと思っているのか」
「……」
「ラルフがお前の帰りを待っているはずだ。
一人で行きづらいのなら、付いて行ってやる」
ビンセントは立ち上がり、リリアを抱き上げた。
「……!」
リリアは今のラルフに会いたく無かったが、ビンセントはこれ以上この部屋にいさせてくれそうに無かったので、仕方なくラルフの部屋へ戻ることにした。
「ビンセント、いいよ。自分で歩けるから降ろして」
「靴擦れしたところが痛むのだろう?
折角包帯を巻いたんだ。じっとしていろ」
ビンセントは長い廊下を、リリアを抱えて歩いた。
「ラルフ。扉を開けてくれ」
ビンセントがラルフの部屋の前でそう言うと、扉が開き、ラルフが出てきた。
「ビンセント……」
ラルフは、ビンセントがリリアを抱いているのを見て、驚いた表情を見せた。
「ラルフ。リリアを避けているのなら、しばらくの間、俺がリリアを預かるが?」
リリアはラルフの顔を見ないよう、ぎゅっとビンセントに掴まった。
「……いや、良い。リリアと話をしようと思っていたところだ」
ビンセントはラルフの返事を聞いて静かに笑い、
「おやすみ。リリア」
と言ってリリアをラルフに引き渡し、そのまま行ってしまった。
ラルフはリリアを抱いたまま、ベッドまで連れて行き、ベッドの上にリリアを降ろした。
「リリア……」
リリアは頭まで布団に潜り、向こうを向いた。
「ラルフ、ごめんなさい。
さっき私が言った事は全て忘れて。
悪魔になるかならないか、結婚するかしないかなんて、私一人で決める事では無かったよね。
でも……、もう私に帰る場所は無いから……。
だから……、私が死ぬまでこの世界にいさせて……」
「リリア。俺はお前を人間の世界へ戻そうとなど思っていない。
ただ、お前を悪魔にしてしまうのが怖いだけだ」
ラルフがリリアの隣で横になると、リリアは更に布団の中に潜って、ぎゅっと目をつむった。
「リリア……。
俺はもともと人間ではないと言ったのを覚えているか?」
リリアは何も言わず、布団の中で目を開いた。
「リリア、これを見てくれ」
ラルフはリリアに背を向けて、自分が着ていたシャツを脱いだ。
リリアがそっとラルフの方を見ると、暖炉の灯りの中でラルフの背中にある、二つの大きな傷がはっきりと見えた。




