第七十三話
馬車は山道をゆっくりと登って行く。
窓の外は満天の星だ。
「リリア。明日の朝には向こうの世界の入り口に着くから、今のうちに眠っておいた方が良い」
ラルフがリリアの肩に毛布を掛けながら言った。
「今日で人間の世界は終わりなの?」
「ああ」
「ラルフ……」
「どうした?」
ラルフが微笑む。
「ラルフの思い出の場所へは行かなくていいの?」
「……ああ。俺に思い出の場所は無い」
「……ごめんなさい。
ラルフの過去を知ろうとした訳ではなくて……。
折角ここまで来たのだから、ラルフも行きたい場所があるのかと思って……」
リリアは慌てて言ったが、自分でも何を言っているのか、分からなくなった。
そんなリリアを見たラルフは小さく笑い、
「リリア、俺の言い方が悪かった。
この世界に思い出が無いのは、俺はもともと人間ではなかったからだ」
と、言った。
リリアはますます聞いてはいけない事を聞いてしまったような気がして、自分が言った言葉を取り消してしまいたいと思った。
「……ごめんなさい」
「いや。気にするな」
「……」
リリアはこれ以上、何も言えなくなってしまった。
「リリア、今日は疲れただろう?
今のうちに眠っておいた方が良い」
「……うん」
リリアはラルフの顔を見ないよう、窓の方を向いて毛布を深くかぶった。
何度も眠ろうとしたけれど、ラルフの事が気になってなかなか眠れず、ずっと窓の外の星を見つめていた。
リリアが眠れぬまま、夜は明けた。
窓の外は、辺り一面真っ白で何も見えない。
「急に寒くなったな……」
ハイドが体を丸め、ガタガタと震えながら言った。
「ああ。山頂だから気温が低い」
馬車から降りると、一面が雪に覆われていて、人間の住める場所ではなかった。
リリアは手のひらで雪をすくった。
冷たいけれど、悪魔の世界の雪とは違って、砂糖のようにサラサラしている。
「んー! やっと自分の部屋に戻れる」
ハイドが体を伸ばした。
「本当にこの世界とは、これでお別れね……」
リリアはポツリと呟いた。
「リリア。また来たいのならいつでも連れて行く」
「ううん。いいの。もう二度とここには来ないわ」
「そうか……」
リリアはラルフがどんな顔をして返事をしているのかを見たかったが、まともに目を合わせる事が出来なかった。
「うう……。寒い。早く俺たちの屋敷に戻ろうぜ」
ハイドは寒さをまぎらわすように足踏みをしながら言った。
「ああ。リリア、俺の後ろへ下がっていろ」
リリアがラルフの背中に隠れた時、降り積もった雪の中から沢山の氷柱が出てきて、あっという間に氷で出来た城が姿を現した。
「わぁ……!」
「さあ、中へ入ろう」
驚いた顔で氷の城を見ているリリアの手をラルフが握り、城の中へ入へ入ると、ハイドとビンセントも、二人の後に続いた。
大広間の奥に一枚の大きな鏡のような氷の壁があり、ハイドがその壁に手をつけると、手だけが壁の奥に入っていった。
「リリア、お前もやってみろ」
「う……、うん」
リリアも氷の壁に手をつけると、冷たい感触と共に自分の手が氷の中に入って行くのを感じた。
ハイドはそれを見て、
「よし。リリア、一気に行く」
と、リリアの手を引いて氷の壁の奥に消えた。
リリアは怖くて目を閉じていたが、気が付けばラルフの屋敷の前にいた。
「不思議……」
その後、ハイドとビンセントも何もない空間から飛び出して、皆、無事帰ることが出来た。
「ああ寒い! 早く屋敷に入って暖炉で暖まろうぜ」
ハイドが真っ先に屋敷の中に入っていった。
リリアは今日から正式にこの屋敷の住人になった。
まだ人間のままだが、二度と人間の世界には戻らない。
リリアはラルフと手をつないだまま、屋敷の中へと入っていった。




