第五十六話
翌朝、リリアは自分の生まれ育った世界へ戻るため、ラルフと出発の準備をしていた。
「ハイドとビンセントは、どこにいるの?」
「二人とも昨日の夜、酒を飲みすぎてぐったりしている」
「……そう」
リリアは少し寂しかった。
ビンセントはともかく、ハイドは見送ってくれると思っていた。
「リリア。この世界と人間の世界は時間が少しずれている。
リリアにとって、この世界にいたのは数ヶ月に感じたかもしれないが、向こうの世界では数年の月日が流れているから驚かないようにな」
「……うん」
「瞳を閉じて、しっかり掴まっていろ」
「うん」
人間の体で異世界へ行くのは、かなりの負担が掛かるのだろう。
リリアは再び、強い閃光の中で気を失った。
リリアは懐かしい香りと音で、自分が生まれ育った世界へ戻ってきたことを感じた。
しかし身体中が痛くて、なかなか起き上がることが出来なかった。
リリアがそっと目を開けると、真っ先にハイドの笑顔が飛び込んできた。
「あれ……? ここは……。人間の世界ではないの?」
「いや。ここはリリアが生まれ育った世界だ」
「でも、ハイドがいる……」
リリアはしばらく頭の中がぼんやりとしていた。
ハイドはいつものように笑顔で答えた。
「俺達もリリアの生まれ育った世界が見たくて、付いて来た」
「……俺達?」
「ああ。ビンセントも来ている。
……まぁ、ビンセントは別の用もあるけどな」
「ラルフは?」
「先に、王やお前の元婚約者の所へ行っている。
リリア、今回も丸一日眠っていたからな」
リリアは寝たまま、部屋の中の様子を見た。
部屋の中は家具の配置も置物も、自分のいた頃と何も変わっていなくて、手入れが行き届いていた。
唯一変わっているとすれば、ベッドから見える窓の外の景色が緑色に彩られていて、自然豊かになっているのが、はっきりと分かることだ。
「リリア。お前、本当に一国のお姫様だったんだな」
ハイドがリリアの部屋に置かれていた装飾品を珍しそうに見ながら言った。
そこへ部屋の扉をノックする音と、懐かしい声が聞こえた。
「お嬢様、お加減はいかがですか?」
「マイカ! ……痛っ!」
リリアが慌てて起き上がろうとすると、頭に激痛が走った。
「ああ、馬鹿だな。急に起き上がったら駄目だろう」
ハイドがリリアをゆっくりと寝かせると、
「お嬢様は、馬鹿ではございません!」
と、マイカが怒った。
マイカに怒られ呆然としているハイドの姿を見て、リリアはクスクスと笑った。
リリアは改めてマイカの姿を見た。
十年近く月日が流れているようで、マイカはすっかり大人になっていた。
「お嬢様。起き上がれそうになったら、着替えて髪を結いましょう。
ほら、そこの悪魔さん。身支度の間は退室してくださいよ」
「ハイハイ。あーあ、俺はいつも怒られてばかりだ」
ハイドはぶつぶつと文句を言いながら、部屋の外へ出ていった。
リリアは久しぶりにマイカに髪を結ってもらった。
「お嬢様。髪がつやつやしていて、結ってしまうのがもったいないぐらいです。
昔は何もかもが不足していて、日射しも強かったから、髪の傷みが酷くて毎日大変でしたよね」
マイカはあの頃を懐かしがりながら、リリアの髪にブラシをかけた。
「マイカもあの頃より随分大人っぽくなって、とても綺麗だわ。
マイカ、結婚は……」
リリアがそう言いかけた時、小さな男の子が部屋に飛び込んできた。
「ドニー! この部屋に勝手に入ってはいけないと言っているでしょう」
「だって、お姫様を見てみたかったんだもの」
男の子はマイカと同じ栗色の髪と瞳で、マイカとそっくりな笑顔をリリアに向けた。
「マイカ、この子は……?」
「お嬢様、甥のドニーです。
ドニーは生まれてすぐに両親が亡くなったので、私が引き取り、ここでお世話になっています」
「……そう」
リリアは、一瞬脳裏によぎった自分の考えが外れていたことに、ほっとしたような、ほっとしたことを恥じるような、複雑な気持ちになった。
「さぁ、お嬢様。
王様もアスラン様も昨日からずっとお待ちですよ。
参りましょう」
リリアの心の中を知らないマイカは、小さなドニーの手を引き、にっこり笑って部屋の扉を開けた。
リリアは王の間へ行く途中、回廊で足を止めた。
「マイカ。少しここの景色を見たいから、先に行っていて」
「分かりました、お嬢様。ドニー、行きましょう」
マイカとドニーが去った後、リリアは一人静かに景色を眺めた。
ほんの少し前まで、ずっとこの城で育ったはずなのに、ここから見える景色はリリアのいた頃とは全く変わってしまっていて、まるでリリアだけが違う世界に迷い込んだような、不思議な気持ちになった。
「これは母様が見ていた世界……」
リリアが生まれる前までは、緑豊かで城中に花が咲き誇っていたと聞かされていた。
リリアはずっとその世界に憧れていた。
リリアの母は、きっとこの景色を見て過ごしたのだろう。
「……母様」
リリアは母の姿を知らずに育ったが、目の前に広がる景色を見ていると、傍に母がいるような気がして、リリアの瞳から勝手に涙がこぼれ落ちた。
「リリア」
突然リリアの後ろから声がしたので、慌てて涙を拭って振り向くと、そこにはハイドが立っていた。
「ここがリリアの育った世界か……」
ハイドはリリアの隣に立ち、リリアと同じ景色を眺めた。
「違う……。ここは私がいた世界ではないわ」
「……そうか」
いつも冗談ばかり言っているハイドが、何も言わずに傍にいるので、再びリリアの目から涙が溢れた。
「可笑しいね……。全然悲しくなんかないのに」
リリアはハイドに泣き顔を見られないように、横を向いて必死で涙を止めようとした。
ハイドはそんなリリアの肩を抱き、リリアの涙が止まるまで黙って傍にいた。
「リリア」
聞き覚えのある懐かしい声に、リリアは振り返った。
「アスラン!」
アスランはすっかり成年の顔をしていて、体もずいぶん逞しくなっていた。
「リリア。目覚めた頃かと思って迎えに来たが……。
一体そこで何をしている?」
アスランはハイドに敵意を向けた表情で言った。
仕方がない。
見知らぬ悪魔が泣き顔のリリアの肩を抱いているところを見られたのだ。
「アスラン、違……!」
アスランはリリアの手を強引に引っ張った。
リリアがハイドの方を振り返ると、ハイドは、
「リリア。俺はここで待っているから」
と、笑顔で言った。
「アスラン、痛い……」
アスランはしばらく黙ってリリアの手を引っ張っていたが、途中で立ち止まり、リリアの方に振り向いた。
「リリア。この世界にお前を戻しに来たラルフは良いが、何故悪魔が増えている?
それに、お前は何故、あそこで泣いていたんだ」
「アスラン。悪魔ではなくて、ハイドよ」
「名前などどうでも良い。
リリア、辛い目に合っていなかったか?」
「うん」
「十年経ってもラルフと結婚していないのは、ラルフと上手くいかなかったって事だな」
「アスラン……」
久しぶりに会ったアスランは、昔のアスランではなかった。
昔のアスランは、リリアのどんな話でも優しく微笑みながら聞いてくれた。
今のアスランは眉間に皺が深く刻まれ、リリアを萎縮させた。
人間は時の流れと共に心も姿も変わってゆく。
アスランは再びリリアの手を引き、黙って王の間へ向かった。




