第四十四話
リリアは、長く続く寒々とした廊下をひたすら走った。
約束した一時間を過ぎると、ハイドに迷惑を掛けてしまう。
ビンセントの部屋は、書庫のある階の最奥にあることは知っていたが、一度も入ったことはない。
リリアは体中がドキドキと脈を打っているように感じた。
ビンセントの部屋の前に着くと、リリアは大きく深呼吸をして扉をノックした。
「……ビンセント?」
何も反応は無かった。
「ビンセント、勝手に入るね……」
リリアは扉をそっと開いた。
部屋の中は暖炉の明かりがついているだけで薄暗く、ビンセントがいる気配はなかった。
暖炉の明かりを頼りに部屋の中へ進んでいくと、小さなテーブルの上に一冊の本が置かれていた。
リリアは本を手に取りパラパラとめくった。
「……日記」
リリアが読んでいた、バラバラの日記だった。
「オォォ……」
部屋の外からあの音が聞こえる。
リリアは窓辺に近付き、曇った窓ガラスを服の袖で拭いて、外の様子を見た。
中庭で、あの日見た黒い影が動いているのが見えた。
「やっぱりいた……」
リリアはビンセントの部屋を出て、中庭に向かって走った。
屋敷の扉は吹雪のせいで重く閉ざされていたが、リリアは体中に力を込めて扉を押した。
『ビュォォォ……』
吹雪が一気に屋敷の中に入り込んでくる。
目の前は真っ白で何も見えなかったが、あの音を頼りに中庭へ向かった。
リリアは黒い影を見つけた。
黒い影は、片方の目だけがギラギラと赤く輝いている。
「ビンセント。ビンセントでしょ?」
リリアは吹雪の中、大声で叫んだ。
黒い影はリリアの方を向き、
「来るな! ここへは来るなァァ……!」
と、獣のように叫んだ。
その声を聞いて、リリアは安心した。
黒い影は、やはりビンセントだ。
リリアは、あの日の事を思い出した。
あの日もリリアは、黒い影の正体がビンセントだと気付き、ビンセントの制止も聞かず、近づいた。
ビンセントは獣のような鋭い爪で、一瞬にしてリリアを引き裂き、リリアはその場で気を失った。
「リリア。ここはお前がいる世界ではない」
「どうして?」
「お前は人間で、俺達は悪魔だ」
「知っているわ」
「リリア、俺の姿をよく見るがいい」
ビンセントが、ゆっくりとリリアの方へ近づいてきた。
赤い惑星に照らされたビンセントは、狼とも人間ともつかぬ姿をしていて、顔半分が崩れていた。
その姿を見たリリアは声が出せなかった。
「俺が怖いか?」
ビンセントは不気味に笑いながら、リリアの頬を鋭い爪で撫でた。
リリアは黙ったまま、首を横に振った。
「……人間は平気で嘘をつく」
「嘘なんかついていない。
ビンセントは、ビンセントだから怖くない」
リリアはビンセントに近付こうとしたが、ビンセントはリリアを雪の上に押し倒した。
羽の形をした雪が舞い上がり、赤い惑星の光でピンク色に染まってリリアの体に落ちてくる。
ビンセントは、リリアの喉元に鋭い爪をあてた。
「喉元を引き裂けば、人間は簡単に死ぬ」
「私を殺したら、人間への憎しみは消える?」
「ああ。やってみなければ分からないがな」
「もう少ししたら、ハイドが私を探しに来る」
「それは命乞いのつもりか?」
リリアは首を横に振った。
「ハイドやラルフの悲しむ姿は見たくない」
リリアはそう言って、静かに目を閉じた。
ビンセントはリリアの喉元に両手をかけた。
リリアの脈動や呼吸が、ビンセントの手に伝わってくる。
リリアの頬に温かいものがパタパタと落ちてきた。
リリアは、そっと目を開いた。
ビンセントは、人形のバイオレットのように涙を落としていた。
ビンセントの赤い目が、元の黒色に戻っていた。
リリアはビンセントの崩れた頬に手を伸ばし、流れ落ちる涙をそっと拭いた。
二人の体に、羽の形をしたピンク色の雪が降り積もる。
「俺が……、俺の姿が怖くないのか?」
リリアはビンセントから目をそらさずに頷いた。
「……ビンセント。
ビンセントは私の事を嫌っているのに、いつも私を助けてくれる。そんな優しいビンセントを、どうして怖がらなければならないの?」
「リリア……! リリア……!」
遠くからリリアを呼ぶハイドの声が聞こえる。
ビンセントは立ち上がり、ゆっくりと雪の中へ消えていった。
「リリア! 大丈夫か?」
ハイドが雪の上で倒れているリリアを見つけた。
「ビンセントが……。ビンセントが消えた」
「ビンセントの事は心配するな。
それより早く部屋に入って着替えよう」
ハイドは羽織っていたジャケットを脱ぎ、リリアにかけて抱き上げた。
「ハイド。寒がりなのに、ごめんね」
「何言ってるんだ。馬鹿だな」
「そうね……」
リリアは小さく笑ったが、やがてハイドの腕の中で気を失ってしまった。




