9話
ゾルン・ペシミウスの一撃は、銀の盾を容易に切り裂き、イリスの体を真っ二つに裂いた。飛び散る鮮血。裂かれた服の隙間から、浅いが痛々しい切り傷がのぞいている。
「よく躱したな」
イリスは、激しく呼吸しながら、自分の身体の感触を触って確かめた。ガエザルに首を落とされかけた時と同じ感覚があった。明確な、死の気配。圧倒的な力と速度。敵う相手ではない。
「魔術は使わないのか」
振り下ろしたはずの剣は、いつの間にかまた振り上げられていた。まるで、彼女の周りだけ重力など存在しないかのような軽やかさ、素早さだった。
「使わない」
イリスは立ち上がった。剣も盾も手放し、拳を構えた。
「君とは違ってね」
ペシミウスの表情に一瞬動揺が走る。イリスは躊躇せず踏み込んだ。振り下ろされる大剣。
すんでのところで躱し、懐に入り込んで、拳を無防備な胴に叩き込む。
手ごたえはない。それどころか、イリスの拳は砕けて血が噴き出している。イリスはとっさに退いて距離を取った。
「なぜ魔術を使わない。虹目の魔女イリス。それとも他の魔女がいないと使えないのか?」
「私の魔術は模倣。確かに他の魔女がいないと使えないけど……」
「違うな。お前は模倣じゃない。私は本物の『模倣の魔女』を追っていた。やつは、一度見た魔術なら、いつでもどこでも自由自在、災厄の魔女の名にふさわしい厄介かつ強大な魔女だった。だがお前は違う。何を隠している? 何を企んでいる?」
「君と同じだよ。私は自分の固有心象を憎んでいる。私は不完全な『模倣』でいい。君が、不完全な『魔女殺し』であろうとするのと同じように」
「違うな。私は『完全な魔女殺し』だ」
「目の前の魔女を殺しもせずにこんな風におしゃべりしてるのに?」
踏み込みは一瞬。イリスは瞬きすらせずにその軌道を追う。
理解した。ゾルン・ペシミウスは確かに、イリスよりも強靭かつ鍛え上げられた肉体を持っている。ただそれだけではこの動きは説明がつかない。
条件付きの能力強化。おそらくは発動の必要のないもの。
銀は魔術の発動を阻害するが、魔術によって生成されたモノを壊す力も、召喚された生物を殺す力もない。ただ弱めるのみである。
「象徴本質、か」
人々や魔女が召喚本質と呼ぶものは、正確には象徴本質である。ほとんどの場合で魔女の象徴は動物であり、そうでない場合も伝説上の生き物であったりする。しかしごくまれに……概念や、存在それ自体を象徴する魔女もいる。
その場合、魔女はその召喚本質と自身を同化させることがある。
ゾルン・ペシミウスは、殺すことに特化した象徴本質。おそらくは……
「処刑人かな、君は」
「知ったところで何になる」
大剣を空を切る。イリスは地面に突き刺さった大剣を足で抑えた。ペシミウスは懐から取り回しのいい銀の短剣を抜いた。それをイリスの首をめがけて正確に突く。が、それもイリスは躱す。
「死ね」
そのまま横に薙ぐ。美しい銀の髪が蝶の鱗粉のように舞った。
体を低くして躱したイリスに対して間髪入れず蹴りを入れるペシミウス。今度は躱せない。ひざを立てて防御の姿勢をとる。
「舐めるなよ、魔女殺しを」
その蹴りは、イリスが予想していた力をはるかに上回っていた。その防御の姿勢は完全なものであり、可能な限り全身にその衝撃を分散させたにもかかわらず、イリスの身体は吹き飛ばされ、その脳はゆれ、一瞬意識が断たれた。
直接受けた足の骨にはひびが入り、体中がしびれたような感覚で、思うように動けない。それでも立ち上がろうと顔をあげると、再び大剣を持ち、それを振り上げているゾルン・ペシミウスの黒い影がイリスを覆っていた。
「そういえば、もうひとりの魔女はどうした?」
顔を歪めるイリス。痛みゆえか、それとも。
「ポータレストか」
イリスは答えなかった。嘘をついてもそれが通るとは思えなかった。本当のことを言ったとしても、その情報に価値がないということも。
しかしそれは重要ではないように思えた。
一度魔女の友に裏切られたエルカが、もしもう一度裏切られたら。
違う。もしも、少しでも裏切られたかもしれないという可能性を残して、残りの人生を歩むとしたら。
エルカは、二度と魔女を信じることはなくなるだろう。
「水の魔女はどこだ。答えれば、見逃してやる」
「水の魔女エルカは、逃げた。私より先に。私を置いていったんだ。だから私はあいつを追いかけてここまで……だから、銀の武器も奪った。あいつを殺すために」
「ほう。魔女らしいな」
「ヤツの行先は検討がついてる。どうせ殺されるなら、その前に私を裏切った魔女が死ぬところを見たい」
そう言って、イリスは力なく立ち上がって、考えた。
ポータレストから遠ざかる方に誘導すればいい。どうせ連中は魔女が魔女をかばうことなど想像もしないはずだ。連中にとって、魔女とは邪悪で身勝手な存在であり、誰かのために犠牲になろうという発想を持つはずもない存在だろうから。
ペシミウスは許すように笑った。だが、振り上げた剣は降ろさなかった。
「お前の言い分はわかった。見逃してやるというのは嘘だ。私も魔女だからな。嘘をつく。そしてどうせお前も嘘をついている。死ね」
容赦なく剣を振り下ろすペシミウス。その想定外の判断に、イリスは反応が遅れる。避けられない。
その瞬間だった。
水の滑走路を滑って移動してきたエルカの高速の蹴りが、ペシミウスに命中した。
「エルカ! ど、どうして……」
エルカは、倒れているイリスを引き上げた。そして、ペシミウスを睨む。
通常なら、数メートル吹き飛ばされるほどの強力な飛び蹴りだった。しかし、ペシミウスは壁のようにびくともせず、ただその身体を一瞬わずかに揺らし、イリスへのとどめの一撃をとどまらせただけだった。
「私は追い出された。私の居場所はもうどこにもない」
イリスは気づく。自分を握るその手が、ひどく濡れていることに。
「あんたは逃げろ。イリス。私があいつを何とか……」
言い終わる前に、ペシミウスの容赦ない斬撃がエルカを襲った。
生成本質――水
「ダメだエルカ! 生半可な防御じゃ!」
水の盾。
もう傷付きたくない。
それは彼女の今の心を投影するかのように、これまで見せてきたどんなものよりも、厚く、硬いものだった。
しかし、それすらも容易く断つペシミウスの膂力。エルカは躱そうと地面を蹴ったが、残された足をペシミウスの刃が捕らえた。鮮血が散る。
今度はイリスが、地に伏したエルカを立たせようと手を取った。しかしエルカは流れる血を止めようともせず、身体を起こそうともしなかった。
「エルカ! やつには勝てない! 逃げよう!」
「逃げる場所なんてもうどこにもない」
「そんなこと……」
「あんたは元々そうだっけ。もう何でもいい。こうなったのは全部私のせいだ。できるだけひきつけるから早く逃げろイリス」
「そんなの無理だよエルカ。私も体が思うように動かないし……」
「なら、しょうがないか」
現実浸蝕――水の楽園
エルカの身体が水になって崩れていく。と同時にそれらは溢れるように体積を増し、イリスの身体を飲み込んでいく。
「退避だ!」
ペシミウスは叫んだ。経験則上、魔女の現実浸蝕は時に他の魔女以外の生物を即死させる効果を持つことがある。対策は、即座に殺すか、あるいは距離を取ること。
「いえ、その必要はなさそうですよ」
ペシミウスの部下は動かず、エルカの現実浸蝕を観察する。
美しい水の真球。そこには、一匹の生物すらおらず、銀髪の、困惑したひとりの魔女だけが浮かんでいた。
「記録では、本体は球の中心にいたみたいですが、見る限り本体は溶けて消えているみたいですね」
「固有心象は生まれついてのものだが、その時々の魔女の精神状態を反映するものでもある」
「とすれば、あの水の魔女は、この世界から消えてしまいたかったのでしょうか」
「あるいは、友を守りたかったか。魔女同士の友情など、まやかしに過ぎないというのにな」
そう言って、ペシミウスは水の球体に向けて走り出し、全力でその大剣を叩きつけた。激しい火花が散る。しかし、水の球体が欠けることは少しもなかった。
「あの中に閉じ込められたら、ペシミウス様でも助からないかもしれませんね」
「くだらんたらればを言っている暇はない。包囲だ。解いた瞬間に殺す。両方だ」
「あの魔女を拘束していた北方第六拠点の報告によると水の魔女エルカの現実浸蝕に時間的制限はないと考えられるそうですが」
「なら埋めろ。土をかぶせて埋めてしまえば、解いた瞬間に窒息して死ぬだろう。火であぶり続けてもいい。水なら蒸発する可能性がある。やりようはいくらでもある」
◆
「エルカ、エルカ!」
呼吸はできた。おそらくはこの現実浸蝕の中でなら、誰を生かし、誰を殺すか、エルカはその意志で選択できるのであろう。
水の牢獄の中で、イリスは呼びかけ続けた。しかし返事はなかった。
「ねぇエルカ。私は……ひとりでずっと考えたよ。君が言ったこと。確かに私が必要としているのは『誰か』であって、『エルカ』ではなかった。うん。きっとそれは、この先もずっとそう」
言葉は泡となって、この牢獄の淵に触れて、小さな波紋に変わる。波紋は連なってこの小さな世界全部に伝わっていく。
「でもさ、今の私のそばにいてくれる『誰か』は、エルカしかいないんだよ。今、エルカだけが、私を敵から守ってくれているように」
水の中の小さな声が、孤独な魔女にかすかに届いた。
「エルカ。私は、君が失った居場所の代わりにはなれないけれど、その苦しい時間を共に過ごしているだけの『誰か』ではありたいんだ」
完全だった水の真球がわずかに震えた。その振動は音となり、その中にいるひとりの魔女の耳に届いた。
「魔女と魔女は分かり合えない」
その現実浸蝕は、エルカが心を開くほどに、不安定になっていく。
「私はあんたを利用した。あんたも私を利用した。それだけのことじゃないか。もううんざりだ。こんなことの繰り返しは」
「でも君は私を友達と言った」
「その友達に裏切られたばかりだ。あんたもどうせ都合が悪くなれば裏切るんだろう? 人間でさえそうなのに、魔女は違うとでも?」
「私は! 私は裏切られたっていい。だってそれもその人のひとつの選択だから。ねぇエルカ。何度も裏切られてきたならわかるでしょ? 裏切られることは……つらいけど、耐えられないほどじゃない。だって私たちは、裏切られる前からどうしようもないほど孤独で、誰かを信じたところでそれで孤独が癒えるわけじゃないんだから」
「固有心象に浸ればその孤独すら忘れられるというのに、なぜそれを抑えて人のまねごとをするのか。私はあんたと違う。自分の固有心象さえあれば十分なんだ」
「じゃあなんで、あの時も、今も、私がここにいるの?」
二人の魔女にとって、外で起こっていることはどうでもよかった。ただこの瞬間、自らの心の中で広がる波紋、それを見届けることが、この広い世界すべてのことや、刻一刻と近づいている自分たちの命の危機よりもはるかに重要なことであったのだ。
「魔女と魔女はわかりあえない」
エルカはそう言った。
「人と魔女もそうだ。人と人だってそうかもしれない。私たちは互いにずっと誤り合っている。それはきっとこの先ずっと変わらない。そんな世界で、私たちに何ができる? この凍えるような孤独の中で。理解されたいという身勝手な感情の中で」
「尊重し合うことはできる。すべてを解決することはできなくても。エルカ。私は君と一緒にいたい。全く異なる存在として。先験的に、分かり合えないと定められた存在同士として」
牢獄は、何の前触れもなく破れた。立ち尽くすびしょぬれのイリスの前に、少し気恥しそうなエルカが座り込んで見上げている。
「あんまり難しい言葉使うなよイリス。何言ってるかわかんないから」
「エルカ!」
そう叫んで抱き着こうとするが、ペシミウスの蹴りを受けたダメージが残っていて、よろめいて倒れた。
「ねぇ受け止めてよ! そういうシーンでしょ!」
エルカは、始めて会ったときのように、這いつくばるイリスを静かに見下ろしている。しかし以前と違い、その表情は柔らかかった。
「無茶いうな。さっき足斬られて全く動かないんだよ」
「あ、そっか。ごめん」
想定外の状況に、反応が遅れたペシミスウとその配下たち。魔女たちが何の前触れもなく、策もなく、鉄壁の防御を解くとは想像もしていなかった。
しかし、魔女とはそういうものである。魔女の心の中で起こっていることは、その当人以外の誰にもわからないのだから。
「で、どうするイリス」
「え?」
「私は足の負傷で立つことすらできない。現実浸蝕を連続で使える程の精神的余力もない」
「え、私も身体痛くて動けないし、策なんてないよ! どうすんの!」
「打つ手なしか。じゃあイリス……もしあの世があれば、その時も、友人としてよろしく」
「ちょっとエルカ! 目つぶらないで! 諦めないで!」
無慈悲な魔女殺しの剣が迫る。ふたりにもう打つ手はなかった。




