17話
荒れ果てた、辺境都市ルヴェールの中央区。その中心地である市庁舎前の広場。イリスとエルカが最初に訪れた地。その時は人っ子一人いなかった。
しかし今、そこは人で埋め尽くされていた。
たったひとり永遠に立ち尽くしていたはずのルヴェルティカの銅像は倒され、代わりにそこに立ったのは、邪悪な魔女。
「私! 私! 私! 見渡す限りの私の景色! たくさんの人間がいる……老いも若きも、皆そろいもそろって同じ顔、同じ表情、同じ心象!」
親衛隊の魔女たちはエルドゥアリンに手を出せずにいた。
今喋っているのが本当にエルドゥアリン本体であるという証拠はなかったし、たとえ仮にそうだったとしても、銀でなければ傷つけても即座に様々な魔術で反撃されたうえ、簡単に逃げ出されてしまいかねなかったから。
「イリス。『同調』の範囲は、声と視線の届く範囲。でもね、それは『私』の声と視線の届く範囲。そして人間は全員『私』になれる。つまり……」
街に響く大合唱。怪物の唸り声のように、呪いの言葉が轟いた。
「人がいる限り、『私』は無限に広がっていく! 私はこの力で、世界中の人間たちを支配することもできる!」
「人払いを急げ。人がいなければ、同調の連鎖も止まるはず」
局長ヴァルネルヴィアの指示は的確だった。しかし、魔女だけではその仕事もやりきれない。
中央区の貧民たちは、遠くから聞こえてくる魔女の叫びに耳を塞いだ。しかしそれでも、精神的な魔術はその内面を蝕み、自我を弱めていく。
「エルドゥアリン」
増幅された魔女の声がやんだ。本物の同調の魔女が、操られた人間たちの精神に干渉したのだ。
その力の強さは互角。
つまり、イリスもその気になれば、エルドゥアリンと全く同じことができるということ。
「その力は、軽々しく使っていいものじゃない」
「どうして? あなたも魔女ならわかるでしょう。世界から与えられた魔術。それは個性であり、特権。あなたは人間を支配し操るために生まれた。私はそんなあなたを模倣するために生まれた。その可能性を実現することの、何が罪だっていうの?」
「罪? そんなの知らない。でも、ひとつ確かに言えることがある」
「何かしら」
「気持ちが悪い」
「気持ちが悪い? 美しいの間違いでしょう?」
「本当に、心の底から、この光景は最悪だって思う。もしそれを引き起こした魔術が、自分のものだっていうのなら、そんな固有心象はいらない!」
強い意志を宿した瞳は虹色に輝いていた。それは、誰がどう見ても魔女の瞳だった。
全ての魔女は、身勝手で、自己中心的で、衝動的である。そしてそれぞれ異なる心象を持っており、異なる心象同士が互いに相容れることはない。
それゆえに魔女と魔女は、争い合うしかない定めにある。
「はぁ。つまらないわ、イリス。あなたの固有心象なんてどうでもいい。他の魔女の固有心象なんて複雑すぎて模倣できないもの。えぇ。私はもうあなたのことは十分理解した。あなたは人間を自由自在に操れる。ほとんど無条件で。だからもうあなたは用済み。というか、邪魔ね。あなたがいなくなれば、私の洗脳を解けるものは誰もいなくなる。世界は、私だけのものになる。消えてくださる?」
転化本質――模倣。対象、灰の魔女。
召喚本質――悪魔。
「これは、悪名高い灰の魔女の召喚本質。私の知る限り、最悪の魔物」
召喚された真っ白な悪魔。それは笑いながらイリスに飛び掛かった。イリスは銀の武器で応戦しようとするが、その刃が届く前に、悪魔は絶叫のような笑い声を響かせて爆ぜた。
吹き飛ばされるイリス。とっさに水の壁を展開して防いだが、灰に触れた水の壁は煙をあげていた。
「腐食っ……!」
飛び散った灰の一部がイリスの片腕に届いていた。ほんの少しだったが、それだけで皮膚は焼けただれていた。
「あはは! あわれな人間どもを見てごらんなさい! イリス!」
人々の顔は、飛び散った灰によって溶けだしていた。
イリスはそのグロテスクな光景に目を逸らすことしかできなかった。
「あなたのせいね、イリス」
悪魔の笑い声が響いた。今度は一匹じゃない。五匹。さらにもう一匹。
「不公平ね。あなたは人を傷つけないようにしてる。だから、あなたが私に同調して模倣の転化本質を使っても、こういう本当に強力な魔術は使えない」
6匹の悪魔がこの世全てをあざ笑うように上空を飛び回る。その場で爆ぜて、灰の雨を降らせる。
「エルドゥアリン。私は、本当に模倣の魔女になりたかったんだ」
「つまり、何が言いたいの?」
「だから、私は魔術以外も模倣してきた。優れた技術なら、どんなものでも!」
生成本質――銀。
銀のレイピア。
すべての魔女は、殺さなければならない。
「一撃だ。一撃で、お前の首を落とす」
「そんなこと言ってる場合かしら」
最初の灰がイリスの腕に届き、その肌を焼いた。
生成本質――銀。
レイピアの先が一瞬揺れる。
左腕が目にもとまらぬ速さで振りぬかれた。
短刀の投擲。風を切り裂き、避けそこなったエルドゥアリンの肩に突き刺さった。
瞬時に消失する腐食性の灰。
落下していくエルドゥアリン。
駆けだすイリス。
魔女の心臓を穿たんとする致死のひと突き。
エルドゥアリンは肩に刺さった短刀を引き抜いてそのまま、レイピアの剣先に当てた。
「一撃というのは嘘ね」
「いや、一撃だ」
手放されたレイピアが、からんと音を立てて地面に落ちた。遅れて、銀の短刀も。
生成本質――銀。
腰を落とし、上半身をひねって力をためる。手には鞘。右手には切断に特化した細身の刀。必殺の居合。
両者の間で一瞬だけ止まった時が、刀が鞘に擦れる音と共に動き出す。
転化本質――模倣。対象――蚕の魔女、フィラムヴェクス。
生成本質――糸。転化本質――機織。
遮断の繭。
その一刀は、その何層にも折り重ねられた鉄壁の繭ごと切り裂いた。
しかし、エルドゥアリンの首まであと少し届かず、その糸に絡めとられてしまう。
「アハハハハ! 惜しかったね!」
「今のが本物のガエザルなら、君は死んでいたよ」
「誰それ。今は私だけを見て。私だけの、美しい世界を!」
現実浸蝕――『仮面舞踏会』
生成本質――泥。
世界が真っ黒な泥に覆い尽くされていく。
転化本質――模倣。
広げられた泥は人の形を象っていく。
召喚本質――仮面。
その顔には仮面。色とりどりの。
広場に出現した巨大なホール。
そこでは盛大な仮面舞踏会が繰り広げられている。
「魔女が憎い」
「人間はくだらない」
「あなたを愛しているわ」
「君とはもうおしまいだ」
「命だけは助けてくれ」
どこかで聞いたようなセリフばかり。泥人間たちの、繰り返される空虚な芝居。
表面的な多純性を装った単純化。そして、戯画化。
それが、エルドゥアリンの本質であった。
「皆、美しいでしょう? それぞれに違った美しさがあって。世界はすべてこうあるべき。そう思わないかしら」
仮面をつけた誰でもない俳優のひとりが、イリスの髪を撫でた。
「君の髪はとても美しい。結婚してくれ」
その手を払うと、泥の俳優は笑いながら崩れ落ちて沈んでいった。
「エルドゥアリン。君は人間を軽視し過ぎている。私はそれが許せない」
「どうして? あなたも私も魔女で、人間なんて弱くて醜い生き物とは違う」
「私は、自分が魔女である前に……ただの人であると信じている」
生成本質――銀。
霧は展開できない。
この空間では、エルドゥアリンの『心象』の方が強力であったから。
「つまり、あなたは自分の単純な卓越性を否定して、誰もが持っている複雑な凡庸性を愛しているということね。醜いわ」
「いつまでもそうやって単純化していればいい。外からは凡庸に見えても、そのひとつひとつの生き方には、理解しえないほどの苦悩と葛藤が伴っている。そこには無数の勝利と敗北があり、誇りと侮蔑がある。私たちは皆、難しい人生を歩んでいる。どうしようもないほどに」
「つまり、あなたはずっと『別の人』になりたかったのね! 空虚な自分に耐えられないから! うふふ。つまり、私とあなたは似ているということね!」
生成本質――銀。模倣の連鎖。
泥人形たちの手の中に現れたまったく同じ無数の銀の短剣。その切っ先が、視線のように共通の敵にまっすぐ向けられた。
「つまり、あなたは私と同じ、とっても醜い邪悪な魔女だということ!」
泥人形たちの叫びと突進がイリスを襲う。イリスはただ体の力を抜いて、友のことを想った。
転化本質――同調。対象、エルドゥアリン。
転化本質――模倣。対象、水の魔女、エルカ。
「君は、私がこの世界で一番よく知っている魔女。君の苦悩も葛藤も、そのすべてを理解することなんてできないけれど……尊重することはできる。愛することだって!」
現実浸蝕――『水の楽園』
君の世界は牢獄なんかじゃない。
ひとつの理想郷。みんなが自由で幸福に生きられる最善の楽園。
エルカ。君の世界には、最初から、様々な生き物がいた。
それが、君の変わらない本質。何よりも強固で、何よりも気高い、経験によって変わらないもの。
努力によって、手に入ることのないもの。
そして私が何よりも……羨ましく思っているもの。
「本当は、君にだってできるはずなんだ。エルドゥアリン。君に現実浸蝕の模倣ができないのは、君が他者の複雑な心から目をそらし、その奥底まで下っていくことを諦めたからだ」
「だからなんだっていうの? この世界に、私以外の魔女はいらない」
転化本質――模倣。対象、殺戮の魔女ゾルン・ペシミウス。
生成本質――断頭台。
「この魔女は、かの有名な殺戮の魔女のもの。あぁ今は、魔女殺しの魔女、だなんて呼ばれているのだったかしら。まぁ、どうでもいいわ」
転化本質――裁断。
「つまり、この刃は、すべてを断ち切るということ!」
エルドゥアリンにとって、他者の魔術はそれだけの意味しかなかったから。
ホールの天井につるされた、竜の首をも断つ巨大な刃が落とされる。
それは、ふたりの魔女の友情をいとも簡単に切り落とした。
「もし私が本物のエルカなら、これくらいは簡単に防いでた」
「それって負け惜しみ? 表現として複雑すぎるわ。何が言いたいのかさっぱりわからない。つまり、あなたはやはり醜い。ものごとはすべて、もっとシンプルじゃないといけない」
「私は、そう思わない」
生成本質――砂。転化本質――滞留。
「太陽の魔女アリディスは、最期まで気高くあろうとしていた。最悪な魔女だったけど、命をかけて、役割を果たそうとした」
滞留の解除。上空に留められ続けた大量の砂が、エルドゥアリンの舞踏会を外側から押しつぶす。
「気高かったのか、最悪だったのか。どっちなのかしら。矛盾した表現も感情も嫌いだわ」
エクリプシスの解除。仮面舞踏会は一瞬にして消え去り、泥は土に溶けていった。
落とされた砂の大部分は現実浸蝕とともに消え去り、残ったわずかな砂粒が視界をわずかに悪くしていた。
「ガエザルは、恐ろしい男だった」
生成本質――銀。銀の矛。
「はぁ、結局は同じことの繰り返し。退屈だわ、イリス。それも、あなたが殺した英雄の武器ね」
生成本質――糸。転化本質――機織。
遮断の繭。
「あなたの力じゃこの繭は貫けない」
「いいえ。私の絹は、水に弱いの」
屋根の上には、蚕の魔女、フィラムヴェクス。
「これを使え! イリス!」
その隣には、槍の魔女アマルセル。他にも、戦いを見守っていた何人もの親衛隊の魔女たちが、一斉に水の入ったバケツをひっくり返した。
「ありがとう。みんな」
転化本質――凝集。対象、水。
アマルセルたち親衛隊員が用意した大量の水を、一か所に集めていく。
対象は当然、繭に隠れたエルドゥアリン。
「雑魚どもが。魔女と魔女の存在をかけた一騎打ちだというのに」
生成本質――泥。
エルドゥアリン自身の生成本質が、集まってくる水を遮断した。
さらに、地面を伝って屋根の上の魔女たちの足元にまで泥が広がっていく。
「もう、ここで全員殺すことにするわ」
もう一度、『仮面舞踏会』が世界を覆い尽くさんとした。
この場にいる人間と魔女すべてを巻き込むほどの規模で。
しかし、イリスが狙っていたのは、エルドゥアリンの意識が自分から逸れる、その一瞬だった。
「すべての魔女は……」
殺さなければならない。
乾坤一擲。矛の軌道は、誰の目にも留まらなかった。
代わりに、たったひとつの事実だけがそこに残されていた。
真っ二つに切り裂かれたエルドゥアリンの頭部。
その黒く染まった顔の中心より先が、深い谷のように割れていた。
死にゆく魔女の口は赤く染まり、裂けたように吊り上がっていく。
いつか見た、戦線のポスター。そこに描かれた、世界を嘲笑う魔女の生首のように。
「人間って、恐ろしいのね」
イリスが最後に模倣したのは、今は亡き筆頭断頭官ガエザル渾身の一投。
それは紛うことなき人間の技術であり、一切の魔術に頼らない一撃だった。
「ガエザルは、きっと、単純な男だったと思う」
「意外ね」
「エルドゥアリン。単純であることは、悪いことではないんだ。それは単なる見え方に過ぎないから。この世界のすべてが複雑であったとしても、すべてを複雑に見る必要はなかった」
「その通りだと思うわ」
「でも、模倣するためには、正確に再現するためには、複雑なものを複雑なまま見ようとする、苦痛を伴う努力が必要だった。でもそれに、君は耐えられなかった」
「その話すら、今の私にはもう複雑すぎるわ」
「もういいんだ。エルドゥアリン。さようなら」
死にゆく魔女の肉体への同調を終わらせた。
その身体は泥となって崩れ落ち、この事件の幕が下りたのだった。




