16話
すべての魔女が邪悪とは限らないが、だからといって邪悪な魔女がいないわけではない。
百相の魔女エルドゥアリンは、紛うことなき邪悪な魔女であった。
「止まれ! エルドゥアリン!」
その邪悪な魔女を取り囲む政府の兵士たち。しかしエルドゥアリンは意に介さず、変わらずイリスの姿で、ぶつぶつと独り言をつぶやいていた。
「イリス。なぜあなたは、はじめ魔術を隠そうとしたのかしら。もし『同調』が単に、他の魔女に自分を同調させるというだけなら、私の『模倣』の劣化版でしかない」
転化本質――模倣。
「当然、隠す意味もない」
対象、殺戮の魔女ゾルン。
転化本質――裁断。対象、兵士。
切り刻まれていく前列の兵士たち。
「はは。殺すだけならこれが一番手っ取り早いもの」
後方で待機していた者たちは我先にと、逃げ出していった。
しかし転んでしまい、取り残されてしまった者がひとりいた。
「もっとも、なんでも切り裂ける『裁断』は魔女を直接対象にとれないのが残念なことだけど……対象? あっ。対象! なんで気づかなかったのかしら。虹目の魔女イリスは、自分と魔女を対象にとっていた。でもあらゆる魔術は、魔女に対してよりも……人間に対してより強い効果を発揮する。ということは?」
転化本質――模倣。対象、虹目の魔女イリス。
転化本質――同調。対象、百相の魔女エルドゥアリン。第二対象、逃げ遅れた兵士。
「はは……ははは! なんてすばらしい魔術! 信じられない! この魔術は……人間を、『私』にすることができる!」
そう叫んだのは、エルドゥアリンではなく、逃げ出しそうとしたひとりの兵士だった。
その声を聞いた他の兵士たちは、立ち止まって振り返った。見捨てた仲間と視線が重なる。
同調は、伝播する。
「私は……私は! この『同調』で、全世界を『私』に染め上げることができる!」
◆
エルドゥアリンの跡を追うイリス。最初に『同調』の対象となった兵士は、呆然自失の状態でそこに突っ立っていた。
強制的な同調には、後遺症が残る。
「エルドゥアリン。私はあなたが憎い。私が憎み拒絶した魔術を、何の躊躇もなく私の前で使って見せたから」
その兵士の肩に手を置いて、額を合わせた。
「それでも、私は、知らないといけない」
その心を。
確実に、殺すために。
◆
自失した兵士の心には、エルドゥアリンの心象の残滓が残っている。
転化本質――同調。
心を、沈ませ、重ね合わせる。
同調していった先に見えたのは、ひとつのホール、ひとつの舞台だった。
「私は、知りたいの」
舞台の上の魔女。仮面を被っている。真っ黒な仮面を。目だけがきらきらと輝いていた。
「何者でもないから」
白く美しいドレス。魔女がくるりと回ると、そのドレスの色が赤く染まった。
「知ることさえできれば、私は何者にでもなれる」
拍手。拍手喝采。いったい誰が? 誰も、見当たらなかった。
「でも、知ることができない人がいる」
ドレスの色が、青、緑、黄と目まぐるしく変わっていく。
「それは、複雑な人」
黒く染まった。その仮面は、怒りに燃えていた。
「理解できなければ、模倣もできない。そんなのは許されない」
くるりともう一回転。ドレスは再び真っ白に。仮面は優しく微笑んだ。
「でも、それなら殺せばいい。殺してしまえばその人は『何者かであった人』もはや『何者か』ではない」
深くおじぎをする魔女。今度は拍手は起こらなかった。
「私は自分が何者かわからないんじゃない。最初から、最後まで、永遠に、『何者でもない』。それが私、百相の魔女、エルドゥアリン」
魔女は顔をあげた。その顔に、仮面はついていなかった。真っ黒に染まった顔。何も見えない。何もわからない。
「私は何者をも許さない。私よりも複雑な存在を、決して許さない!」
その憎悪の瞳の先にあったのは、静かに客席に座っている、いないはずのひとりの観客。
「エルドゥアリン。君の気持ちなんてわかりたくもないけれど……」
立ち上がった、もうひとりの魔女。
「私も、『何者でもない』という意味では同じ。あなたと同じものを抱えている」
「違う! 違うわ! 私は醜いあなたを許さない! あなたを……否定して、切り刻んで、ひとつに固めて、そして……演じるの。単純になって、綺麗になったあなたを」
幕が下りた。鳴りやまぬ拍手が続く。
これが、エルドゥアリンの心象の残滓。
「同調も模倣と同じで、単純化を伴う」
ぽつりとこぼれる魔女の一言。
「私はエルカに同調してもエルカにはなれない。でもエルカがいないと、私はエルカに同調することもできない。私にはいつだって他者が必要で、他者がいなければ私は何者にもなれない。他者がいたって私は……私自身は、永遠に、何者でもない」
友の声の記憶が、魔女の頭に響いた。
「イリス。あんたはいいやつだ。魔女であるという以前に」
「違うよ、エルカ。そうしないと愛されないと学んだから、そうしているだけ。私は最初から善良だったんじゃない。私の何もかもは表面的で、後天的に身につけられたものに過ぎない。努力によって獲得されたすべては、努力する前に存在したすべての天稟には届かない!」
イリスの心象と、エルドゥアリンの心象が混ざり合っていく。
客席は舞台に、舞台は客席に変わっていく。
舞台に立ったのは、顔のない人々。
それはイリスの心の中の人間たちであり、同時に彼女自身であった。
「私の努力は、無駄だった」
閉じた幕の向こう側から、悲し気な魔女の声。答えるのは、舞台の上の人間たち。
「本当にそうだろうか。本当にそう言えるだけの根拠がそろっていただろうか」
別の人間が語り出す。イリスの言葉で、イリスの心を。
「もし私が本当に、あらゆる人間的な努力が、魔女的な本性を追いこすことができないと考えていたならば、世界から与えられた特権を放棄し、魔術と固有心象に拠らない自分を作り出そうとしただろうか」
「その固有心象が封じられ、隠されたとき、それを行った主体がいたはずではなかろうか」
「その主体は、私らしさといえるものではなかったのか」
「その選択は」
幕が上がる。客席のイリスは、俳優たちに向かって叫んだ。
「違う! その選択も、全部、状況に迫られたものだった。それは私らしさなんかじゃない。私は、そうせざるを得なかったから、そうしただけ。外から与えられたもの。状況によって引き付けられたもの。私の善良さは、人間性は、何ひとつ、本質的じゃない。これまでも、これからも」
「しかしそれは、魔女でなければ皆同じこと。固有心象を持たぬ人間たちは、ひとり残らずその不確かさの中で生きている。なにひとつ、魂に固定化された心象もなく、すべては偶然と環境に支配され、その中でも自分らしくあろうとして、実際に、自分らしく、誇り高く、生きている」
俳優は誰もいなくなった。
残ったのは、誰もいないホールに立つ、一人ぼっちの主役。
「だとすれば、私がそれを否定する理由なんて、ひとつもないじゃないか」
落ちていく照明。
下りていく幕。
魂の痛みと共に目を開くイリス。
拍手をする者は誰もいなかった。
「エルドゥアリン。私は君を、必ず倒す。ひとりの魔女として。ひとりの、人間として」




