15話
毛並みのいい大型の白い犬を連れた麗しい女性が歩いてくる。
頭にはベージュのカジュアルなマリンキャップ。青く淡い髪色と合わせて、柔らかくて穏やかな印象だった。そのトップスはベージュを基調とした温かみのある色彩。ボトムスは、カーキのロングスカートだった。時々立ち止まっては犬を撫で、愛情に満ちた表情で微笑んでいた。
「誰あれ」
エルカはついそうつぶやいた。
「ギャップやば」
「ふたりとも。本当に私は風呂に入るだけでいいんだな」
口調は、行政局局長、ヴァルネルヴィアその人だった。
「えと、うん。っていうか、局長さん、すごく……なんていうか、かわいいですね」
「ありがとう」
「え、今照れた?」
「黙れ。仕事とプライベートは分けてるんだ」
局長ヴァルネルヴィアは、久々の休暇をとって風呂屋に犬を連れてやってきた。イリスとエルカがダメもとで頼んだ結果だった。
「フィルとこの都市を救うためだ」
そう言って即座に了承したのだ。
「いやでも、私服で来てほしいとは言ったけど、これはさすがに……」
「政府のトップだって犯人もわからないかもなぁ」
「私が行政局局長ヴァルネルヴィアだと、浴室でわかればいいんだろう? なら、こうすればいい」
生成本質――雪。
あたりに、ぱらぱらと雪が降り始めた。少しだけまわりの温度も下がった。
「風呂に入りながら、季節外れの雪を眺めるのはいいものだぞ」
「え! すごい! いいなぁ……」
「確かにそれなら、すぐに雪の魔女だってわかる。じゃあヴァルネルヴィア。温泉を楽しんで」
「あぁ。これも重要な仕事とはいえ、何か月かぶりの休暇だ。しばし落ち着かせてもらおう」
◆
風呂屋の入り口で1匹の忠実な飼い犬を待たせて、局長ヴァルネルヴィアは風呂屋に入って行った。
「さて……それじゃ、エルカ。やるよ」
「うん」
生成本質――目。イリスが隠してきた本質のうちのひとつだった。
「やっぱり気持ち悪いな」
イリスはそうつぶやいて、自分の目を手で覆った。浴場と脱衣場にひとつずつ生成した『目』が即席の監視装置として機能する。
「うえっ」
イリスは用意して置いたバケツに吐しゃ物を吐き出す。エルカはコップに入った水を差しだし、イリスは目を隠したまますぐにそれを飲み干した。
「大丈夫?」
「うん。平気」
イリスにとって、転化本質以外の魔術を使うのは禁忌だった。それは自らが否定した固有心象に根差したものだったから。
「ちゃんと見えてる。私の『目』が、浴場と脱衣所の隅から隅まで」
「どう? 異常は?」
「ない。今のところは何も」
◆
「おえええええ」
イリスは定期的に激しい吐き気に襲われた。数分おきにえづくイリスのとなりで、エルカは献身的にバケツを入れ替えたり、脱水を起こさないようにコップに入った水を手渡していた。
「まだ何も起きない?」
「いや、起きた。ヴァルネルヴィアが浴場から脱衣所に戻ってきた」
「服は?」
「ある」
「じゃあ何も起きてないじゃん」
「違う。同時に、ヴァルはまだ温泉に浸かってる」
「は? どういう意味?」
「今この瞬間、ヴァルがふたりいる。ひとりは温泉につかり、もうひとりは脱衣所で体をふいて、服を着ようとしている。変身能力のある魔女だ」
「そいつが犯人か! イリス、今すぐ向かって捕まえる?」
「いや、相手は魔女。風呂屋の中で戦ったら人を巻き込み過ぎる。外に出てから、挟撃しよう」
「ネフィに言ってくる。親衛隊の増援を呼んできてくれるはず」
「おえ。お願い」
◆
人生は、観客のいない舞台である。何を演じるべきで、物語がどこに進むべきなのか、それを知る者は誰もいない。
「この世界はちょっと複雑すぎるわ」
スポットライトの下で、そう叫んだひとりの魔女がいた。
「もっと単純な方が美しい。ひとつの都市に、ひとつの国。勢力はふたつもいらない。魔女と人間の関係だって、魔女が人間を支配するか、あるいは人間が魔女を迫害するか、どっちかじゃないといけない。あなたたちも、そう思わないかしら?」
誰もいない観客に語り掛ける無貌の魔女。
「そうじゃないと、私、演じられないもの。どんな役も。あなたは誰を憎み、何を望むの? そこのあなたは? 早く答えて。あぁ。この都市は、複雑すぎる。この都市で生きる人々も。なぜ魔女に家族を殺された人が、他の魔女と友達になれるの? なぜ、人間に迫害され続けた魔女が、人とともに生きようとするの? わからない。つまらない。もっと単純に、もっとわかりやすく。世界はそうならないといけない。皆さまも、そう思うでしょう?」
誰もいなかったはずの客席に、無数の人の形をした泥が現れる。魔女と同じで顔のないそれは、べしゃべしゃと泥を飛ばしながら拍手喝采。壇上の魔女は、うやうやしくお辞儀をしたあと、こう言った。
「つまり私たちは、壊さないといけない。この不快な複雑性を」
◆
ヴァルネルヴィアに化けた百相の魔女が、彼女の服を羽織って風呂屋の出口に向かう。主人の気配を感じた犬がすぐに尻尾を振って立ち上がったが、出てきたその人物を見た瞬間、その尾をぴたっと止めた。
そして、ここに来るまで一度も吠えなかった大人しい犬が、激しく吠え始めた。
「あぁ、これだから動物は嫌いなの。私、匂いまでは真似できないから」
そう言って、百相の魔女がその大型犬に手をかざした。
転化本質――模倣。対象、金剛の魔女デリア。転化本質――圧縮。
そして手を握ると、犬の身体がゆっくりと圧縮され潰れていく。犬は恐怖に体を震わせながらも、魔女に嚙みつこうとした。しかしその圧縮する力からは逃げられない。
生成本質――水。転化本質――凝集。水の網。
犬が圧死する寸前、エルカは展開した水の網を自分の手元に引き寄せた。巻き込まれた犬は、圧縮する空間から引きはがされ、エルカの足元に転がってきた。息はしていたが、舌を出し、息を荒げ、手足を投げ出している。
「この子を……見殺しにするのは私にはできないな。もう少し泳がせたかったけど」
「あら……魔女さんね。水の魔女? 始めてみたわ! 素敵」
「あんたが、服泥棒の犯人か。何者?」
エルカは、百相の魔女の前に立った。時間を稼がないといけない。
「私が何者かって? そんなの私が聞きたいわ!」
転化本質――模倣。対象、火薬の魔女エクラ。生成本質――火薬。転化本質――圧縮。対象、火薬。
「爆発事件もあんたの仕業だったのか」
投げつけられた黒色の塊。
転化本質――着火。
「彼、期待外れだったわ。もっとたくさん殺してくれると思ってたのに。でも、火薬は便利だわ。銀と合わせれば簡単に魔女も殺せる」
「簡単には死なないよ、私は」
幾重にも重ねた水の膜で、爆発を防いだエルカ。立ち上る煙。
「ウフフ。水の魔術って、こんなこともできるのね。素敵」
百相の魔女の身体の周りに、水の膜が生成されていた。
「模倣……そうか。あんたは模倣の魔女か」
「うふふ。私は百相の魔女、エルドゥアリン。でもね。誰も私の名前を呼ばない。なぜ? なぜなら、その名を知った人は全員……」
「殺すからか。邪悪な魔女め」
「あら、魔女はみんな邪悪なのだから、邪悪な魔女という言葉は少し変じゃないかしら?」
「イリス。もう動ける?」
「エルカ……私は」
吐き気を抑えて何とか立ち上がったイリス。その目はすでに虹色に輝いていた。
「あら、あなたは……」
「イリス。やつは、あんたと同じ模倣の魔女だ。戦い方は、よく知っているはず」
「違うよ、エルカ」
「あなたが、私と同じ、模倣の魔女? あはは、あははははは! 違うわ。あなたは私と同じではない。よく似ているけど、本質は全然違う。うふふ。でもわからない。あなたが何の魔女なのか。ねぇ、私、あなたが気になるわ。どんな素敵な魔術を持っているのか」
「エルカ。聞いて。私はあいつの前で魔術は使えない」
「なんで?」
「あいつは間違いなく本物の『模倣』。対象が死んでいようが関係ないし、劣化もしない。ただ表面的な効果を制限なく再現できてしまう」
「何を言っているのかよくわからないけど、その分応用は効かないってことでしょ!」
そう言って、エルカは、水を地面に広げて土を吸い上げる。それを固めて、砂の剣に変える。模倣の魔女も同じようにやって見せる。
「こんなこともできるのね。とっても素敵。あなたの『水』と『凝集』。あなたのこと、もっと知りたい」
「模倣はオリジナルに劣る。それなら」
斬りかかるエルカ。同じように振りかぶるエルドゥアリン。剣がぶつかりあった。どちらもはじけた。まったく同じように。出力に差はなかった。
「同じよ? 私とあなたの力は」
至近距離で、挑発するようにそう言うエルドゥアリン。その顔は、ぐにゃぐにゃと曲がっていき、エルカとそっくりに変わった。
「あぁ。そうみたいだね。でも、もう終わり」
現実浸蝕――水の楽園。
アリディスを倒した時と同じだ。たとえどれだけ強力な魔術を自由に使えたとしても、楽園の中に引き込んでさえしまえば、息もできず、身動きも取れなくなる。
「あなたのこと、全部わかったわ。つまり、あなたも他の魔女と同じ、お馬鹿さんってことね」
生成本質――銀。
エクリプシスを起動しようとしたエルカの腹部に、短剣が突き刺さっていた。エクリプシスが瞬時に停止した。銀だ。銀の短剣がその手に握られていた。
「銀の本質。そんな、矛盾を抱えた魔女がいたのを知ってる? まぁ、私が殺しちゃったからもういないんだけどね」
「エルカ!」
叫ぶイリス。崩れ落ちるエルカ。そのまま、ぴくりとも動かなくなった。
「あはは! あははははは! あぁ、次は誰の真似をして、誰を殺そうかしら。うん。この世界は、魔女が多すぎる。魔女を演じるのは疲れるもの。もっと少ない方がいいわ」
「エルドゥアリン……」
イリスは、エルドゥアリンを睨む。その目は虹色に輝いているが、身体は動かなかった。
「そんなに怖い目で私を見ないで? うーん。わかったわ! つまりあなたは、恐れているのね」
「君なんて少しも怖くない」
「うん。あなたが怖がっているのは私じゃない。あなた自身よ。あなたは、自分の魔術を恐れている。その本質を恐れている! 素敵! 私、あなたのこともっと知りたいわ!」
そう言って、銀の短剣をイリスに向けるエルドゥアリン。
イリスは覚悟を決めて、魔術を起動する。使う以上は、ここで殺さないといけない。そうしなければ……
転化本質――同調。
対象、エルドゥアリン。転化本質――模倣。対象、生成本質――銀。第二対象、太陽の魔女アリディス。転化本質――滞留。
銀の霧。
「あら……」
エルゥアリンの周囲に銀の霧が立ち込める。魔術が阻害され、エルドゥアリンの顔が崩れ落ちる。真っ黒な顔面。その中に輝くふたつの目がぱちぱちと瞬きをしている。
「恐ろしいことをするのね、あなた。名前は?」
「虹目の魔女、イリス」
「ふぅん。確かにこれなら、私は何の魔術も使えない。でもあなたもそれは同じ。この霧に入った瞬間、あなた自身の魔術も阻害されて、この霧は即座に晴れる」
「君を殺すのに近づく必要なんてない」
同調――模倣――生成、槍。
それを投げようとした瞬間、イリスは手を止めた。エルドゥアリンは、自分の足元に落ちているエルカの身体を自分の前に盾として持ちあげていた。エルカの腹部からは大量の出血。完全に気を失っていた。
「エルカを離せ」
「優しいのね。友達ごと殺せばいいのに」
エルカの身体をイリスの方に放り投げ、その瞬間に逃げ出すエルドゥアリン。
「エルカ!」
エルカにかけよるイリス。傷口を凝集によって塞ぐのではなく、逆に体内の血液と肉を凝集で、えぐり取って外に引き出した。気を失ったエルカの身体が痙攣を起こす。
「くそっ! エルカ……死なないで」
祈るように、すぐに傷口を塞いだ。
ようやくやってきた親衛隊の隊員たち。風呂からあがってきたヴァルネルヴィア。
エルカは、次の日になっても目を覚まさなかった。
◆
「あれ……私、どうなった?」
二日後の朝だった。目を覚ましたエルカは、柔らかいベッドの上にいた。
体を起こそうとするが、激しい痛みが起こった。反射的に魔術で傷を塞ごうとするも、いつものように生成した水がうまくまとまらない。
諦めて目で見て傷を確認する。すでに包帯が巻かれており、これ以上の治療は必要なさそうだった。
「銀か」
エルドゥアリンはエルカの体内に銀を生成していた。たとえ肉体が回復しても、魔術が使えるまで回復するのにひどく時間がかかる。
「あ、イリス……」
ベッドにもたれかかって寝息を立てているイリスがいた。手を伸ばして頭を触ると、イリスはすぐに飛び起きた。
「うわぁ、エルカ!」
「うるせぇ。状況は?」
「状況……フィラムヴェクスは解放された。百相の魔女エルドゥアリンの行方は、ヴァルネルヴィア主導のもと市政府と親衛隊が協力し合って追っているけど、手が出せないみたい」
「え、なんで」
「やつが強すぎるから。やつは一度見た魔術は何でも模倣できる。劣化もしない。強力な魔女ほど、ヤツの前では魔術を見せられない」
「厄介だな」
「それに、もうひとつ問題がある。私の『同調』がヤツに見られた。その本質的な使い方にヤツが気づくのも、時間の問題」
「どういう意味だ? そもそもなんであんたは今まで自分の転化本質を『模倣』だと偽ってきたんだ?」
「自分の邪悪な固有心象を、受け入れたくなかったから」




