8 おっさん、死別する
——なんなんだよ、この急展開は! 修羅場かと思ったらいきなりハーレム展開きたんだが! ったく最高かよ!
そんな浮かれ気分は、自宅に着いた途端に消えてなくなってしまった。なぜなら、親父が台所の床に俯せに倒れて、死んでいたからだ。
不思議と、いつもみたく酔い潰れて寝ているのではないことがわかる。人間のかたちをしているが、魂が宿っていないことがわかる。そこにあるのは、ただの肉の塊だった。
以前の人生で見た棺桶のなかの親父の遺体も、魂の抜けた肉塊だったことをおぼえている。いま目の前に倒れている親父の気配が、それとまったくおなじなのだ。しかし、
——おかしいな。親父が死ぬのは俺が二十歳のときだったはず。三年も早まってる。
前の人生での俺の親父は、肝臓がボロボロになって自宅での生活ができなくなりとうとう入院したのだが、そのまま一週間もしないうちに死んじまった。そのあと親父の遺体は通夜をすっ飛ばして火葬場に送られ、あっという間に骨になった。
しかしそれは俺が二十歳のときの出来事であり、いまの俺はまだ高二だ。親父の死が早まっているということは、以前とまったく同じ人生を繰り返しているわけではないのか? そんな疑問が一瞬よぎったが、俺がまず心配したことといえば、
(菅沼さんに「また明日ね」なんて言ったけど、これじゃ明日学校に行けないな)
というものだった。実の父親が死んでるっていうのに薄情なやつだな、と我ながら呆れた。
学校に連絡しなくちゃいけないか……あ、その前に救急車か。いや、待て待て。たしか、死んだときに救急車はきてくれないとか、そんな話をきいたことあるな……じゃあ、警察に連絡か? ……ああ、わかんね。どうすりゃいいんだ……ああ、そうだ。まずはお袋か。
お袋の存在を完全に失念していた俺は、黒電話の受話器を取ってダイヤルを回した。
——出てくれたらいいけど。
結局、後処理はお袋が全部やってくれた。それでもこの二日間は、警察の事情聴取やら葬式やらで、バタバタしていたので、とても疲れた。
学校からは「七日間は休んでいい」と言われた。
——せっかくハーレム展開きたのにな。学校、行きたかったな。
五十嵐と菅沼をはべらす空想をしてみたが、気持ちが華やいだりすることはなく、灰色のままだった。疲れすぎているのか、なにごとも味気なく、心は死んだように凪いでいた。
お袋がこのアパートに来ることはなかった。酔っ払った親父にさんざん痛めつけられた記憶が甦るらしく、親父の遺骨も俺が預かることになった。仕方のないことだ。
「高校卒業までお金の心配はしなくていいから」とお袋は言った。「いっしょに暮らそう」とは言ってくれなかった。
お袋にはやっぱり男がいるようで、いまのお袋にとって、親父の遺骨も、俺も、邪魔な存在でしかないのだろう。べつにいいさ。
お袋の話では、昔の親父は真面目で優しい性格の人間だったらしい。しかし優しすぎたせいで心が壊れ、アルコールに溺れるようになった。その頃は〝ブラック企業〟や〝パワハラ〟なんて言葉すらなかった時代だ。それで心を患っても〝欠陥人間〟〝無能〟〝敗者〟という烙印を押される時代だ。親父はある意味では被害者だったのだろう。
もっと別の人生があったかもしれないのに、なにひとつ成し遂げられなかった親父の一生。それは俺自身の一生でもあった。俺は、親父の人生に、自分を重ねた。
俺がまだ幼いころ、親父に遊んでもらった記憶がかすかにある。そう言われれば、あのころの親父は優しかったように思う。
そんなことを思い出していると、不意に、ポロポロと涙が零れた。
——親が死んで泣くんだ、俺。
意外だった。自分にびっくりしていた。涙は次第に嗚咽へと変わる。
——あれれ、こんなに泣きじゃくってる。前のときはどうだったっけ? 親父の葬式で俺泣いたっけ? ……あれ?
思い出せない。一周目の人生のとき、親父が死んで泣いたかどうかを、どうしても思い出せない。ついさっきまで鮮明におぼえていたのに。もしかして一周目の人生の記憶が薄れている? もしかして二周目の記憶に上書きされている?
コンコン。ドアをノックする音がきこえた。
——だれだろう?
俺は涙を拭いて玄関のドアを開けた。そこには菅沼美空が立っていた。
「菅沼さん?」
予想外の事態に頭がパニックになる。
「伊福部くん……えっと、あの……お悔やみ申し上げます」
菅沼は深々と頭を下げた。
「え、なんで?」
「お父さんが亡くなってひとりだってきいたから。皆川くんと松井くんが住所を教えてくれたの」
お袋が家を出ていって、俺が親父とふたり暮らしだと知っているのは、悪友の皆川と松井だけだ。そんなことよりも、女子とコミュニケーションをとったことがないアイツらが菅沼と会話した、という事実に俺は驚きをかくせないでいた。
ふと見ると、菅沼が俺の顔をまじまじと見つめていた。さっきまで泣いていた痕跡を見られたかもしれない。俺は焦って顔をそむける。
「伊福部くん、お昼ごはんは食べた?」
と菅沼は言った。もう三時を過ぎていたが、そういえば朝からなにも食べていなかった。
「いや……」
「やっぱり。材料買ってきたから、かんたんなものを作るよ。こう見えてもわたし、けっこう料理できるんだから」
と言って、菅沼は食材のはいったスーパーの袋を見せた。
俺は焦った。
「いやいや、悪いよ。部屋も散らかってるし」
実際、親父の遺品を整理して処分したあと、気が抜けてしまい何日も掃除をしていなかったし、なにより、菅沼にオンボロアパートでの貧しい生活を見られたくなかった。
菅沼は、俺の肩越しに部屋のなかを覗くと、
「あ、ほんとだ。じゃあ、掃除からはじめるね。お邪魔します」
と言って、俺の脇下をするりとくぐりぬけると、つかつかと部屋のなかにはいってしまった。
「ちょ、ちょっと」
「掃除機はどこかな——あ、あった。借りるね。伊福部くんは座ってていいから」
と菅沼は掃除をはじめた。
「座ってていい」と言われても、そうしているわけにもいかず、俺はそわそわと菅沼のあとをついていく。
菅沼が、部屋に脱ぎ捨ててあった衣服を拾おうとしたので、俺は慌てた。
「す、菅沼さん!」
「ん? なに?」
「これは汚れ物だから、俺がやるよ」
「え。わたし、気にしないよ」
「いやいやいや、俺にやらせてください」
「そう? じゃあ、おねがい」
部屋中の洗濯物を拾い集め、洗面所の洗濯機に放りこんだ。恥ずかしさと情けなさが一気に押し寄せてくる。
洗面所からもどると、菅沼は放置したままになっていた空のペットボトルやプラ容器を片付けていた。
「ゴミは分別したほうがいいよね」と菅沼。
「あ、うん」
菅沼は、ペットボトルとプラ容器を台所のシンクにもっていくと、水で汚れを洗い流した。
「伊福部くん、ゴミ袋ある?」
「は、はい」
俺はいそいでゴミ袋を用意する。菅沼は水を切ったペットボトルとプラ容器を別々のゴミ袋にいれた。
背の低い菅沼は俺を見上げると、
「ふたりでやると早いね」
と言って、ニコッと笑った。
——すっごい可愛いな。
菅沼はテキパキと部屋を片付けて掃除を済ませると、持参のエプロンを着けて台所で料理をはじめた。ここまでくると、俺も腹をくくっていた。もう菅沼の好きにさせよう、と。
「伊福部くんは食べられないものある?」
「いや、ないけど」
「よかった。カルボナーラつくるね」
「え、カルボナーラって家でつくれんの。すごいな。菅沼さん、家でも料理するの」
「うん。わたしの両親、共働きでほとんど家にいないから。ひとりでつくってひとりで食べてるの。だれかにつくるの慣れてないから緊張する」
「俺も手伝えることある?」
「大丈夫。伊福部くんは座ってて」
俺に手伝えることはなさそうなので、大人しく菅沼の言葉に従うことにした。
菅沼が料理をしている後ろ姿を見ていると、あの夢を思い出す。菅沼とふたりの子供との生活。あたたかくも、切ない夢の記憶——
「菅沼さん、どうしてウチにきてくれたの?」俺は訊いた。
「どうしてって、心配だったから」
「俺のことが?」
「うん」
あ。なんか、また泣きそうだ。必死に涙を堪えながら、俺は菅沼に感謝を伝えようとした。
「菅沼さん、ありが——」
俺が言い終わる直前に、菅沼が突然、
「ああああ!」
と叫んだ。俺は飛び上がるほど驚いた。
「伊福部くん、ごめん! まず、お父さんにお線香を上げなきゃいけなかった!」
と菅沼は言った。
「お線香はないから」と俺が伝えると、菅沼は居間にある親父の遺骨に手を合わせてくれた。
「ごめんね。お邪魔したらすぐにご挨拶しなくちゃいけなかったのに」
「そんなのいいよ。きてくれただけでありがたいんだから」
「ううん、駄目だよ。わたし、男の子のお家に上がるのもはじめてだから緊張しちゃって。大事なこと忘れちゃってごめんね」
——なんてやさしい子なんだろう。
俺はふたたび感動して、しばらく菅沼のことを見つめていた。菅沼も俺を見ている。見つめ合うふたり——これはもしかして! キッスのチャンス到来か!
俺は勇気を振り絞る。よしッ、行くぞ! 一歩前へ踏み出したときだった。ん? なにか臭う。
「クンクン……なんか焦げ臭くない?」と俺。
「……あああ! 火ィつけっぱなし!」
菅沼は慌てて台所に駆けていった。




