5 おっさん、夢を見る
目覚ましのアラームを切ったあともしばらくベッドのなかでまどろんでいると、足にやわらかくてツルツルとなめらかな〝なにか〟が当たった——ひとの足だ。重い瞼をこじ開けて、薄目でベッドのとなりの空間を見てみる。俺以外にもうひとりベッドのなかにいた。女の子だ。ねぼけまなこで確認してみると、五十嵐果帆の顔があった。眼鏡をかけていない。寝顔が可愛い。
俺は果帆を起こさないようにベッドから降りた。
ここは、間取り1K鉄筋コンクリート造り築四十年のアパートの一室。
俺はトイレで用を足し、洗面所で顔を洗ってから部屋にもどると、果帆が起きてベッドに腰かけていた。
「授業あるの?」
果帆が訊いてきた。
「今日は一時限目から出ないといけないんだ。君とちがって単位ギリギリなんでね」
「ご苦労様。わたしはゼミに顔出すだけだからお昼くらいから行くね。なにか食べるでしょ?」
そう言って果帆はベッドから立ち上がると台所へむかった。
果帆は、からだにフィットした小さめのTシャツと短パンを着ていたため、ボディラインが浮き彫りになっていた。小ぶりな乳房にツンと上を向いた乳首、ひき締まったウエストの下にはまるい尻が突き出ていた。
昨晩このからだを貪った記憶がよみがえり、抗いがたい劣情におそわれた俺は、気がつくとうしろから果帆に抱きついていた。
「ちょっ、なにしてんの。一時限目間に合わなくなるよ」
そう言いながら、果帆は拒絶する素振りを見せない。俺は果帆を持ち上げて、お姫様抱っこをした。
「わあ!」
と果帆は驚いていたが、その顔がまた可愛くて、俺の心臓がキュッとなる。果帆をベッドまではこぶと、その上に乱暴に放り投げた。
「きゃっ」
みじかい悲鳴を発しながらも果帆におびえるようすはなく、むしろなにかを期待しているかのような野心的な笑みがのぞいていた。
俺が悪い顔をつくって舌舐めずりをすると、ベッドの上の果帆はわざとらしく、
「キャーたすけてー(棒)」
と言いながら、俺のいきり勃った下半身を凝視していた。
——エッロ!
俺は着ていた服を脱ぎ捨てると、ベッドに横たわる果帆めがけて、ダイブした。
昼に学食にいくとすでに果帆がいた。
果帆は、大学にはいってからメガネをやめてコンタクトレンズにしたせいで、彼女の素材のよさが世間にバレてしまい、いまも果帆が座るテーブルには男子学生たちが群がっている。
果帆は俺をみつけると、
「わたし行くね」
と席を立って、俺のほうへやってきた。男たちの敵意剥き出しの視線が痛い。
飲み会の誘いも多いだろうに、彼女はそのすべてを断っているようだった。果帆は、俺自身が恐縮してしまうくらい、一途に俺のことを想ってくれていた。
ふたりが付き合うようになったのは、高校卒業の日に俺が玉砕覚悟で告白したのがきっかけだった。思いもよらず果帆からオーケーをもらった俺は、脳味噌がキャパシティーオーバーを起こして、しばらくのあいだフワフワと宙を浮いている感覚のなかにいた。
それから、おなじ大学に進み、半同棲みたいな生活がはじまった。
今日はふたりともバイトもないので、帰りに商店街に寄って、安い総菜とアルコール類を買いこんできた。
俺には今週末に提出しなければならない課題がまだ終わっていなかったが、「なんとかなるだろ」と現実逃避の言い訳をして、今夜はふたりで宅飲みをすることにした。
果帆は酒が強い。いくら飲んでも顔色ひとつ変わらない。ふたりで他愛もないことをベラベラと喋っているうちに、先に寝てしまうのはいつも俺のほうだ。
気がつけばベッドの上だった。隣に果帆が眠っているいつもの光景。
俺はパンパンになった膀胱が溢れないうちにトイレに行った。用を足しながら、ふと〝これは現実なのか。こんな幸せなことってあるか。ほんとは夢なんじゃないのか。ベッドにもどったら果帆がいなくなっているんじゃ〟という不安に駆られた。
急いでベッドにもどると、果帆は変わらずそこにいた。胎児のようにまるまって寝ていた。安心した俺はベッドにもぐると果帆をやさしく抱いた。
これが夢ならいつまでも覚めませんように、と祈りながら——
——腹の上に五キロの砂袋を落とされたような衝撃で、俺は目覚めた。
「グエッ!」
目の前に幼児の顔があった。
「パパ、はやくおきて!」
その愛くるしい存在に俺はメロメロになる。
「紗空ちゃん!」
と、俺は三歳の娘を抱きしめる。
「いやー」
娘は抵抗するが、俺は逃がさず彼女の匂いを嗅ぐ。
「すぅぅぅぅッ、いい匂い」
「たすけてー、ママー、りくー」
俺の腕のなかで紗空がジタバタと暴れる。
「あーあ! あーあ!」
とベッド脇から声がした。見ると、弟の理空の顔が上半分だけのぞいていた。どうやらベッドに登れなくてぐずっているようだ。俺は腕をのばして一歳児の服をつかむと、ベッドの上に引っ張り上げた。
姉と同じように息子の匂いを肺活量の限界まで吸いこむ。
「理空たんもいい匂い」
「キャッキャ、キャッキャ」
息子は笑いころげる。
ふたりを両腕にかかえたままリビングにいくと、朝食のいい香りがしてきた。
「パパ、おはよう」
キッチンから美空がひょっこりと顔を出す。
「おはよう、ママ」
美空の旧姓は〝菅沼〟——もともと高校の同級生だった。
そういえば今朝、五十嵐さんの夢を見たような……なんであんな夢を見たのだろう。たしかに高校時代に、五十嵐さんのことを〝可愛いな〟とすこしは思ったことがあるかもしれないが、実際は数回言葉をかわした程度で、たいした思い出もないし、高校卒業以来二十年ちかく会っていないのに……
そんなもの思いに耽っていると「パパ、理空たんのゴハンをおねがい」と美空に言われて我に返る。そして、五十嵐さんと同棲していた夢のことなど、朝の忙しさに掻き消されて、いつのまにか忘れてしまっていた。
「ごめん、先出るね」と美空が出勤する。「ママ、いってらっしゃい」「ってっしゃい」と姉弟が送り出す。俺は子供たちの食器をシンクにつけると、ふたりをつれて家を出る。自転車に子供を乗せて、保育園に預けると、駅まで行き、満員電車に揺られる。仕事を終えて、暗くなったころに帰宅すると、美空と子供たちが迎えてくれた。子供たちをお風呂にいれて、夕食を食べ、子供たちを寝かしつける。一日が怒涛のようにすぎていく。缶ビールを空けてひと息つくころには、俺も寝落ちしていた。
追われるような日々だが、幸せな時間だった。
夢うつつのなか、俺は今朝の夢を思い出していた。なにかがひっかかる。妙に現実感のある夢だった。まるで選ばれなかった世界線の記憶を見ているような——そう思った途端、俺はとてつもない喪失感に襲われた——
——あれは夢じゃない!
その唐突な気づきに、俺は嗚咽しながら覚醒した。
——ここは?
ここは、大学時代のアパートでも、三十五年ローンを組んで購入したマンションの一室でもなかった。
どんよりとした頭をもち上げて周囲を見渡す。ゴミが放置されたままで臭いもひどい。見覚えがある。ここは、最底辺の生活をしている五十歳の俺の部屋だ。精神疾患のせいでからだが重くて、うごく気力もない。
——もどってきちまった。最低の世界に。
涙が止まらない。果帆との大学時代の同棲生活も、美空と紗空と理空と築いた家庭も、どちらも夢でも空想でもない。たしかにあった現実だ。俺が選択した現実だ。それが失われてしまった。もう二度と手にすることはできない。
俺は後悔を通り越して、恐怖を感じていた。救いようのない恐怖に——
「はあッ!」
飛び起きる。心臓が痛いくらい激しく脈打っている。ひどい寝汗で服が肌にくっついて不快だった。
襖を開けると、隣の部屋に親父が飲んだくれてイビキをかいていた。
——いまは高校時代だ。
それがわかると、どっと疲れを感じ、俺は膝から崩れ落ちた。
「なんなんだよ、あの夢は……」




