2 おっさん、学問をすゝめる
放課後、皆川と松井とでパチンコを打ちにいった。学ランを脱いで鞄のなかに隠し、ワイシャツとズボンというスタイルで入店すると、店員はなにも言わずに打たせてくれた。ゆるい時代である。
当時の俺はパチンコ、麻雀、競馬とギャンブルにバイト代を全部突っこむほどハマり、散財していた——のに、なんだこの虚しさは? 全然おもしろくねェ。かといって、帰ろうにもいまの俺に帰る場所なんてあんのか?
——あのオンボロアパートか。帰りたくねえなァ。
三人ともそこそこ負けたところで、ちかくの喫茶店で、だれとだれが別れただの、だれだれさんが隠れ巨乳だの、と下らん話を駄弁るってのが、定番コースだった。
そうやって時間を浪費しても、いつかは帰らねばならない。皆川と松井とは帰る方向がちがったので、俺ひとり逆方向の電車に乗った。
築何十年か不明なほどのオンボロさ、たしか俺が家を出たあとに取り壊されてたはずだから、懐かしんでもいいはずだが、あまりにも嫌な記憶がこびりついたアパートなので、いまでも嫌悪感しかない。
鍵もかかっていないドアを開けた瞬間から生ゴミ臭い。部屋の電気をつけると案の定、親父が酔い潰れていた。食い散らかしたものをゴミ袋に入れて、口をきつく締めたら匂いも多少マシになった。
寝転がっている親父を足で押してどけながら、オマエの命もあと三年だぞ。ざまあ、と心のなかでつぶやいた。
いまはお袋がいないからいいが、俺が小学生のころは夫婦喧嘩がひどく、警察沙汰になるほどだった。当然、俺も日常的に暴力の的にされたが、親父二割お袋八割といったところか。
親父が精神を病んで働けなくなり、病院に行くのではなく、アルコールに頼ってしまったが故に依存症となり、肝臓を壊し、俺が二十歳のときに死んだ。
お袋は、親父が働けなくなってからフルタイムで働くようになり、それでそとに男ができたらしい。俺の高校入学の翌朝から、仕事に行ったままいまだに帰ってきてない。とりあえず、まだ離婚できてないので再婚はしてないはずだ。ざまあ。
ある日、お袋の職場に親父がカチコミしたことがあったのだが、不倫にキレるのではなく、飲み代をせがみに行ったのだ。それが相当嫌だったらしく、それ以来定期的に金が送られてくるようになったから、まあ良しだ。
「このままじゃ終わらねえ……むにゃ」
親父の寝言だ。夢のなかでしか息巻けず、結局なにひとつ成せないまま終わった人生だった。十代の俺はそんな親父を嫌悪し馬鹿にしていたが、結果的に俺もおなじ人生を歩んだのだから嗤えない。
奥の三畳が一応俺の部屋になっている。あるのは、布団と、漫画しかない本棚と、ギターだけだ。
バイトして買った一番安い価格帯のテレキャスター。俺の人生にとって諸悪の根源。
——ミュージシャンになる。
よくある夢だ。麻疹みたいなもんだ。俺の場合、その麻疹をこじらせてしまったのが悪かった。ミュージシャンを目指しても当然うまくいかず、そうなるとよけい意固地になり、悪循環にハマっていく。定職には就かず、収入も安定せず、鬱屈だけがたまり、やがて精神疾患になり、みごと社会不適合者がひとりでき上がり! ってわけで、昨晩の〝死に場所さがし〟につながるわけだ。
俺は、ギターをケースにしまうと、押入れの奥のほうへ押しやった。
× × ×
翌朝も見事な朝勃ちを経験した。朝食も食べずに俺は家を出る。満員電車に揺られて最寄り駅で下車し、学校へ。
当時は毎朝かったるかったのに、いまじゃちょっとしたウォーキング気分で、気持ちいい。なにより体調が良い。体調が良いことがこれほど正義だとは知らなんだ。
そして、もうひとつ、今度は精神的な変化だ。なんと、
——勉強がおもしろい。
小中高と苦行でしかなかった〝勉強〟——目にするだけ耳にするだけで精神汚染攻撃を仕掛けてくるワード〝勉強〟——そんな、永遠に和解できない中東問題さながらに、俺と勉強が平和的な関係を築けるなんて夢にも思っていなかったのに、
——勉強がおもしろい。
三角関数の問題を解いたときには、確変引いたときくらい脳汁ドバーってなるし、日本史では壮大な物語に圧倒され、英語では発音に興味をもちはじめると沼にハマり、化学の元素周期表には規則性があることを知って元素にはじめて興味をもつことができたし、現国の授業で芥川龍之介の『河童』をやり、文豪たちの小説が読みたくなった。
放課後、皆川と松井がまたパチンコにさそってきたが断った。今日の授業で気になる部分がいくつかあって、それはたぶん中学で習ったはずのもので、俺はそれをしらべたかった。
高校のちかくに図書館があったはずだ。俺はそこにむかった。
図書館で勉強してる人は結構いて、なかには浪人生っぽい切羽詰まった悲愴感を出してる人もいた。俺も、テーブルの一画をかりて調べものをすることにした。目当ての本はすんなり見つかり席につく。
まさか俺に、図書館で勉強する日がくるとは、感慨深いものがある。なんてやってると、ふと、ある視線に気がついた。奥のテーブルの奴がこっちをチラチラ見てくる気がするのだ。気のせいならいいが——
——いや、やっぱ見てくる。いやだなー、こわいなーと思いつつ、そーっと覗き見ると、目が合った!
メガネ女子だ!
相手が属性女子だと判明すると、俺は急に気が大きくなった。ヤバァ、俺かっこいいのかな、勉強してる姿に知性が滲み出てしまってるのかな。好きーって感じなのかな。
などとふざけてたら、そのメガネっ娘がおもむろにこちらにやってくるではないか。俺はテンパりまくり——はやくも童貞卒業か、コレ——などと思考が飛躍していた。
「伊福部くん、だよね」
——へっ? なんで俺の名前を?
「おなじクラスの五十嵐だよ。あ、知らないか」
「いや、ああ、五十嵐さん。メガネかけてるからわかんなかったよ」
「……いつもかけてんだけどなー、メガネ」
「え、はああ、すみません」
「いいよ」五十嵐はさっぱりと許してくれた。「伊福部くんもこういうところで勉強する人なんだね」
「いやあ、はじめて来たんだよね」
「そうなんだ。わたしんちは、家族が多くてね。落ち着いて勉強できないんだ。伊福部くんもそう?」
「あ、うん、まあ、そんな感じ」
「へえ……あ、わたしそろそろ帰らないと。また明日ね、伊福部くん」
「え、あ、お、おう」
五十嵐は、手際よく文具を片づけると、俺に手を振って図書館を出ていった。
——あいつ、ぜってえ、俺のこと好きだろ。




