10 おっさん、病む
真夜中——
豆電球だけついた薄暗い部屋。俺は布団の上に横になっていたが、なかなか寝つけない。
「ああああッ」
俺は奇声を発して体を起こした。布団から出ると、しばらく部屋のなかをウロウロと歩きまわる。
「俺はバカだ。クズだ。ゴミカスだ。死ねッ死ねッ死ねッ」
と、ブツブツ言いながら、発作的に木の柱に頭を三回打ちつけた。俺は頭を押さえ、その場に崩れ落ちる。
——菅沼さんは、たぶん、俺のことが好きだった。わざわざ家まで来てご飯をつくってくれるほどだ、そうにちがいない。でも、俺はそれを台無しにしてしまった。性欲に負けて菅沼さんに酷いことをしてしまった。菅沼さんを泣かせてしまった。傷つけてしまった。
「クソ! クソ!」
拳をつくって自分の顎をおもいっきり殴った。脳味噌が揺れて頭痛がした。
「……ウゥゥ」
今度は泣き出す。あの日から三日が経っているというのに、俺はいまだに情緒不安定だ。
俺は自分の右手を見つめた。菅沼の胸を揉み、太ももをさすった右手——
俺がさらに最低なのは、すこしでも気を抜くと、こうやって菅沼の胸の柔らかさや太ももの滑らかな感触を思い出してしまうことだ。そして挙句の果てに、
——ブラジャー越しじゃなくて、生のおっぱいに触りてぇな……
なんてことを考える始末。われながらどうしようもないクズだ。
ふと、あのとき玄関先に立っていた五十嵐の姿が頭に浮かんだ。
——そういえば、なんで五十嵐がウチに来てたんだろう?
五十嵐の手にも——菅沼とおなじように——ビニール袋が下がっていた。もしかして、五十嵐も俺に料理を……
五十嵐とふたりでいったカラオケを思い出す。俺はあのとき緊張しっぱなしで、ぎこちなくて、思い出すと恥ずかしくなるのだが、それでも、同級生の女の子とふたりっきりで遊んだあの記憶は、俺のどんな記憶よりもキラキラと輝いていた。
——最低。
五十嵐の捨て台詞がフラッシュバックする。玄関で菅沼とすれ違った五十嵐はすべてを察して、俺に相応しい言葉を投げつけたあと、去ってしまった。
取り返しのつかないことをしてしまったことにあらためて気づかされる。
「……何度やり直しても変わんねえな、俺は……」
一度無駄にした人生をやり直せるチャンスがあったのに、結局、俺は駄目だった。何度やり直したところで、やっぱり俺には駄目な人生しかのこってないのだろう。
絶望が、ふたたび俺をつかまえようとしていた。
学校に行く足取りが重い。何度も引き返そうかと思ったが、結局俺は学校に行った。
一週間ぶりの学校は、なにやら妙によそよそしかった。たかが一週間だが、はじめてくる場所のような新鮮味すら感じる。
教室の前で一旦深呼吸をした。意を決して教室にはいった俺は、まず菅沼の席を探す。机に鞄が置かれていたが、菅沼の姿はなかった。教室をサッと見わたしたが、菅沼も五十嵐もいない。
そこで一瞬緊張が解けて、喉の奥に詰まっていた空気の塊を吐き出した。
俺の席は……あそこだ。
俺が教室を横切ろうとすると周囲の視線を感じた。クラスメイトの数人がひさびさにあらわれた俺に一瞥をくれると、別のクラスメイトにヒソヒソと耳打ちしていた。
その光景を見た俺は、突然ある妄想に取り憑かれてしまった。
——もしかして、俺が菅沼にしたことは、クラス全員に知られている?
急に、みんなが非難の目で俺を見ているように思えてきた。心臓が握り潰されるような突発的な恐怖におそわれて落ち着きを失い、冷や汗が止まらない。
——息苦しい。このまま倒れてしまいそうだ。
不安に駆られて焦った俺は、自分の机まで行くといそいで席についた。
そのあとは、みんなの視線を避けるべく、なるべく身を小さく縮めた。
「おい、亮平」
声をかけられた俺が大袈裟に驚いたため、声をかけた皆川と松井もびっくりしていた。
「お前、大丈夫か」
と皆川は俺を心配して言った。
「……ああ、すまん。大丈夫だ」
「いろいろ大変だったな」
と松井が言ってくれた。
「……いや、うん。ちょっと疲れたかな」
そのとき、菅沼が、生徒会委員の真鍋とつれだって教室にはいってくる姿を見つけた。俺は思わず席を立つ。菅沼も俺に気がつき、ふたりの目が合った。
俺が学校に来ようと思った主な理由が〝菅沼に謝罪する〟ことだった。しかしそれは、菅沼のことを想って、というよりも、〝謝罪して赦されたい。この罪悪感から解放されてはやく楽になりたい〟という、心底身勝手な動機からだった。
この時点で俺はまだ、〝謝れば赦してもらえる〟という甘い考えをもっていたのだ。
しかし、俺を見る菅沼の顔色はみるみる変わっていった。表情が強張り、あきらかに動揺していた。
菅沼は真鍋に、「ごめん。忘れ物しちゃったから取ってくるね」と言うと、逃げるように教室から出ていってしまった。
謝罪することで頭がいっぱいの俺は、菅沼の心情を一切おもんばかることもなく、彼女を追いかけた。
俺が廊下に飛び出すと、そこで五十嵐と出くわした。五十嵐の手には鞄があったので、いま登校してきたようだ。
五十嵐は、最初は驚いた表情をしていたが、目の前の人間が俺だと認識した途端、一瞬で汚物でも見るような嫌悪の色になった。
その極端な変わり様があまりにショックで、俺は頭が真っ白になる。
五十嵐は俺から目を背けると、ロボットのような冷たい無表情さで、俺の横を通り過ぎた。
その態度はまるで、〝わたしの世界からあなたの存在も記憶も消去したし、これからは透明人間として扱うわね〟と宣言しているかのようだった。
教室にはいっていく五十嵐の姿を見送りながら、俺はあらためて、自分が取り返しのつかないことをしたのだと理解した。
階段の踊り場のところで、所在なさげに立っている菅沼を見つけた。やっぱり忘れ物は口実だったのか。
「菅沼さん」
俺が声をかけると、菅沼は過剰なまでにからだをビクッと硬直させた。そして、振り向いた菅沼の瞳には怯えの気配が揺れていた。
「菅沼さん、この前は本当にごめんなさい。あのときの俺はどうかしてて——」
と言いかけたところで、菅沼がかすかに震えていることに気がついた。
——え? まさか俺が菅沼を怖がらせている?
そんなことをいまさらながら痛感する俺は、なんて無神経で鈍いのか。
菅沼は、ひきつった笑顔をつくって、
「う、うん。ぜんぜん大丈夫だから。あ、そろそろチャイム鳴るよ。わたし、先行くね」
と言うと、足早に行ってしまった。




