第98話 避難
はぁはぁ、ぜいぜい。
命からがら孤島を脱出した囚人たちは、荒く息を切らした。
「……何だったんだ……?」
どうやら難を逃れることはできたらしいが、何が起こったのかは今でもよく理解できていない。
囚人たちは疲労した顔を見合わせた。
「わけがわからねぇ……」
「いったい何が起きたってんだ……!?」
突然の異変だった。
何の前触れもない騒動だった。
彼らは今日という日も、普段と変わらないごく平穏な虜囚生活を送っていた。
獄中なのに平穏というのもおかしいかもしれないが、実際に何の変哲もなければ波乱もない、規則正しくも健康的な日々を過ごしていたのだ。
そんな彼らの身に、不意打ちのような急襲が降りかかった。
まず感じたのは、地震かと思うような大きな振動。ほぼ同時に聞いたのは、耳が痛むほどの激しい破裂音。
どうやら四つの獄舎をつなぐ中心である監視室が大破したらしいとの声が、どこからともなく流れてきた。
誰がどうやって──と尋ねる暇もなく、だしぬけの爆音が続いて重なった。
小さな孤島が丸ごと震え、湖の水面が海のように波立ち、四つの監舎も人々もことごとく揺さぶられる。
またたく間に、収容所の内部は猛火に取り巻かれた。
阿鼻叫喚が飛びかい、あたりは騒乱と動揺の坩堝と化した。
誰もが混乱に揺れ、右往左往する中。
鉄格子の鍵が外され、下りていた檻が開けられ、壊れかけた獄舎の外へと解き放たれた。
そして南東側の門に集まるようにとの指示が、看守から下されたのだ。
何でもこの地を治める辺境伯の令嬢からの命令らしい。いつの間に来たのか──と驚く間もなく従うと、囚人一人ずつに木片が配られた。
前門の湖、後門の炎。
目前にまで迫る火の手を見れば、もはや迷っている場合ではない。
急き立てられるようにして、囚人たちは次々と湖に飛び込んだ。
そして底の見えないほど深い水中を、必死にバルサの木片にしがみつき、かろうじて対岸のほとりにまでたどり着いたのだ。
「俺たち、助かった……んだよな?」
「ああ、そうらしい」
今までは無我夢中だったが、無事に孤島を脱出できたことで、ふと囚人たちは自分たちの状況を冷静に振り返った。
着の身着のままではあるが、拘束もされていないし手錠もかけられていない。
看守や刑務官たちも避難を誘導するのに精一杯で、囚人たち一人一人の細かい状況までは把握しきれていない。
「なぁ……もしかしてこれは……」
「千載一遇のチャンス……なんじゃないか?」
別に脱獄を計画していたわけではない。
しかし、いざこうして収容所の外に解き放たれると、ふと魔がささずにはいられなかった。
目の前には懐かしい外の世界が広がっている。虫が光につられるように、自由に惹かれてしまうのはやむを得ないことだろう。
囚人たちはそわそわと浮き足立ちながら、ひそひそと耳打ちしあった。
「お……おい、このまま……」
「ああ、どさくさに紛れてこのまま、ずらか……」
ぬき足さし足、息を殺してその場を立ち去ろうとした刹那だった。
視界が、ふいに暗くなった。
空が黒雲に覆われたかのように、注いでいた陽光がにわかに断ち切られる。
思わず頭上を見上げた彼らは、絶句しながら凍りついた。
「──皆、無事か」
そう敢然と言い放つのは、黒鹿毛の巨馬にまたがった、容貌魁偉たる大男だった。
「ひッ!」
囚人たちはあたかも煉獄で鬼に出会ったかのように、ひいいっとすくみ上がる。
「あ……あ……!」
「ひえぇっ……!」
濃緋色の落日に照らし出された辺境伯ヴィクトルは、軍神が地上に降臨したかと思うほど強烈な覇気をまとっていた。
見たこともないほどの巨大な馬と巨大な男は迫力に満ちあふれ、たった一騎なのに千の騎兵に相当するようにさえ見える。
「皆、よく避難した。大過なく何よりだ」
ヴィクトルが鷹揚に言うと、彼に付き従っていた筋骨隆々の騎士たちが、囚人たちを数人ずつまとめてほいほいとつまみあげた。
「旦那様のおっしゃるとおり、これは避難だ。脱獄ではなく、やむを得ない緊急避難にあたる。そうだな?」
コホンと咳払いしながら、騎士団長のニコラウスが囚人たちの顔をじっと見回す。
ニコラウスの渋い表情には言葉以上に「悪いことは言わないからおとなしく話を合わせておけ」という脅しがこもっていて、嫌でも首を縦に振らずにはいられない。
「おめーらも大変だったなぁ!」
「もう心配はいらねーからなぁ! オレらの側を絶っ対、離れんなよぉ?」
ばしばしと強く肩を叩いて、励ましているのか脅迫しているのかわからない圧をかけてくるのは、過去に監獄に収容されていた元囚人の騎士たちだった。
ユリウスやクラウスやマリウスの後輩にあたる彼らは、現役の囚人たちにとっては以前からの顔見知りだ。つい先日まで獄中で同じ釜の飯を食っていた仲でもある。
無事に刑期を務めあげて出所した後、今ではカタギの騎士としてまっとうに働いていると聞いてはいたが、服役囚だった時代の上下関係は今でも染みついている。満面の笑顔で肩を組まれるだけで、思わず背筋をシャキッと正してしまうほどに。
「おぉ? 隠れんぼかぁ?」
「はっはっはっ、愉快な連中だなぁ~」
わざと離れた場所にこっそりと上陸した囚人たちも、なぜか即座に発見されて一人残らず回収されている。
あえなく捕縛された囚人たちはガタガタと震えながら、激しく首を縦に振った。
(こ、こ、この人たちの目を盗んで脱走なんて……)
(絶っっ対できねえぇ……!)
またとない脱獄のチャンスを震えて見送りながら、囚人たちは泣く泣く自由に別れを告げた。
「皆。引き上げるぞ」
ヴィクトルが宣言する。
張り上げているわけでもないのに雷鳴のように臓腑に響く、重みのある声だった。
「これより、リートベルク騎士団の駐屯地を開放する」
囚人たちの身柄は、駐屯地内でいったん預かる。手狭ではあるが、使われていない兵舎まですべて開放すれば全員を収容することは可能だろう。
駐屯地の内外は騎士によって厳重に警備させるつもりだ。囚人たちが城や街に出ることは認めないが、ことさらに不自由をさせる気もない。
ヴィクトルは破顔した。
「落ち着くまでは私もともに野営しよう。楽しい雑魚寝だ」
楽しいかな? という疑問が誰もの胸をよぎったが、口に出せる猛者がいるはずもない。
「わ……わぁーい……楽しみダナァ……」とひきつった笑顔を無理やり浮かべた囚人たちは、前後左右を強靭頑健な騎士たちにがっちりと包囲されながら、城の北側に広がる駐屯地へとぞろぞろ連行されていったのだった。
***
アレクシアは対岸を見やりながら首肯した。
「あとは大丈夫だ。お父様に任せておけば心配いらない」
「辺境伯は囚人を更生させるのが異常に上手いですからね……」
感嘆するようにしみじみと答えたのは、リートベルク収容所の所長を務めている壮年の男だった。
所長はペルレス王国直轄の司法省によって任命された官吏であるが、収容所の監督や運営にあたっては現地の辺境伯家の協力を多分に仰いでいる。
赴任した当初からこれまで、所長は規格外に強い当代の辺境伯が収監された凶悪犯たちをどれだけ圧倒し、屈服させ、従順にさせてきたかをまざまざと目の当たりにしていた。
この監獄に送られてくるような罪人たちは、不幸な生い立ちや不公平な世間に痛めつけられ、報復するかのように人を傷つけてきた者が多い。誰のことも信じられず、尖りに尖って突っ張っている者もめずらしくない。
そんな触れるものみな傷つけるナイフのような囚人たちが、辺境伯ヴィクトルに鍛えられるうちに彼のことを「漢」として慕い、心酔するようになるのだ。
あれは真似しようとしてできるものではない。ヴィクトルの持つ威厳とカリスマゆえの神業だと、所長ならびに看守一同は深く感服している。




