第94話 正義の鉄槌
「情けないよ、マティアス」
さらに許しがたいことには、兄のルカが冷めきった瞳でマティアスを見返している。
「この騒動、おまえが裏から手を回して起こしたことは明白みたいだ。僕のことを蔑むくらいならともかく、リートベルクにまでこんな多大な迷惑をかけるなんて……心底、見下げ果てた」
ルカの水色の目がどこまでも冷たい。氷のように冷たくて、マティアスは思わず怖気をふるった。
賤しい生まれの出来損ないのくせに、高貴な自分をそんな目つきで見るなど何様のつもりなのだ。
「……だとしたら、何なんだ!?」
ルカに一瞬でも気圧されたのが悔しくて、マティアスは大げさにかぶりを振った。
「あの女を嵌めて何が悪い!? 兄上に何の不都合がある!? それどころかあの女が没落すれば、兄上だって好都合だろうが!」
「好都合? 僕が?」
「兄上があの女に邪念を抱いていることくらい、わからないとでも思うのか?!」
マティアスは嘲笑を浮かべた。ルカを蔑む時だけは生き生きとする男である。
「リートベルク家が不祥事の責任を問われて降爵あるいは廃絶になれば、男爵令息の私はもちろん、兄上のような卑しい身分でも手が届くようになる! どうだ? 願ってもない話だろう?」
「は?」
「兄上の汚れた血は変えようがない。だったらあの女が貶められればいいのだろうが!」
監獄の崩壊によって、リートベルク辺境伯家は過失と責任を問われる。
よくて降爵の憂き目に遭うか、悪ければ取り潰しの沙汰を下されるだろう。
そうなればアレクシアはもはや上位貴族の令嬢ではなくなるし、辺境伯位を継ぐ未来も失うことになる。
マティアスはもちろんのこと、ルカとすら身分が並ぶことになるのだ。
辺境伯の地位を取り上げれば、アレクシアの野蛮さもなりをひそめるだろう。従順で淑やかな、マティアス好みの女にしつけ直すこともできるはずだ。
マティアスは自信たっぷりに力説した。
「そもそも女が爵位を継ぐなど間違っている! 国も法も間違っているんだ!」
婚約者のナターリアがクレーフェ伯爵家の後継者だったせいで、どちらが相手の家に入るかを散々もめた記憶は、まだマティアスの中で新しい。
マティアスの妻になれるなど無上の幸福でしかないはずなのに、なぜかナターリアは爵位と結婚を天秤にかけて不満そうにしていた。
愛のためなら女伯爵の地位など喜んで捨てるべきなのに、ナターリアが何を渋っているのか、マティアスには理解ができなかった。なぜ自分が文句を言われなくてはならないのかも納得がいかなかった。
もとより女性の爵位継承に難色を示していたマティアスは、ナターリアとの関係がこじれていくにつれて、さらに急速に反対派へと傾いていった。
「女の分際で爵位を継ごうだとか、家督を得ようだとか、図々しいにもほどがある! おこがましいとしか言いようがない!」
ただただ不遜で、僭越なのだ。
当主の座は男が担うもの。女は男の下に置かれ、男に庇護されて、子を産んでいればいいのだ。
ましてやアレクシアの生家はリートベルク辺境伯家。クレーフェ伯爵家よりも高位だ。
あの傲岸不遜な女が、侯爵にも等しい辺境伯の地位を約束されているなど不愉快でしかない。
男ですら担うことの難しい、広大な所領と強い自治権を併せ持つ国境防衛の責務が、女ごときに託されていいはずがないのだ。
だから正しい形に戻してやるだけだ──とマティアスは得意満面に持論を語った。
「国防の最前線たる辺境伯の権限を、男の手に取り戻すことは国栄につながる! これは国のためなのだ!」
ルカは本気であっけに取られた。
「おまえは何を言っているんだ……?」
続いてこみ上げてくるのは、恥と怒りだった。
これが血のつながった唯一の弟かと思うと、情けなくて、恥ずかしくてたまらない。
「……屑としか言いようがないな。ここまで腐っているとは思わなかった……」
国栄だの国のためだの大層なことを言っているが、弟がそんな高尚な人物でないことはよく知っている。
アレクシアを陥れようとこんな大がかりな行動に出たのは、ただの身勝手な下心からでしかないことも。
「はっ! 綺麗事を!」
マティアスはせせら笑った。
「あの女を欲しているのは兄上、あなたも同じでしょう? リートベルクを潰せるこの騒動はむしろ好機だと、兄上にとっても悪い話ではないとわからないのか!?」
「まったくわからない。理解できない」
ルカは自分が上がりたいと望んだことは何度もある。
もっと高い地位があったなら、と。
アレクシアに求婚できる身分になれたなら、と。
叶わぬ願いをどんなにか夢想したことだろう。
けれど、彼女を下げたいと願ったことは一度もない。
彼女がもっと低い立場に落ちればいいのだと、そんなことは微塵も思ったことはない。
アレクシアは誰よりも辺境伯にふさわしい人物だ。類いまれな強さを持ち、人の上に立つ器を持ち、民を思う心を持つ。彼女を支えたいと志しこそすれ、零落すればいいと祈ったことなど一切ない。
「愛する女性をそんな方法で手に入れたいなどと思うわけがない。おまえは異常だ。幼稚すぎる」
ルカにきっぱりと否定されたマティアスは、わなわなと全身を震撼させた。
「こ、こ、この私に向かってよくも……!」
駄々をこねる子供のように憤慨しながら、マティアスはついに達した。
──元はと言えば兄が悪いのだ、という結論に。
「兄上! すべてあなたのせいだ! あなたが悪いんだ! 卑しい血筋の末端令息らしく、ずっと私の下で這いつくばっていればよかったのに!」
人間には序列というものがある。
正統な貴族の血を汲むマティアスは、生まれた時から兄よりも序列が上なのだ。
平民の血を引く兄は貴族とも呼びがたい、まがいものの末端令息だ。
そんな兄が分不相応にも、リートベルクの令嬢をパートナーにしていたのが悪いのだ。
これ見よがしに辺境伯令嬢をエスコートしていたばかりか、周囲から褒めそやされて、いい気になっていたのがすべての原因だ。
身の程をわきまえず、秩序を乱すことは罪。
罪には罰があってしかるべきだ。
(そうだ! あの第二王子だって、王宮で騒動を起こしたと言って私を叱責したではないか!)
──王宮で断りもなく騒ぎを起こす者は罪人と同じ。
第二王子リュディガーはマティアスにそう冷たく言い放った。
ならばパーティーで人々から注目され、王宮の風紀を乱していた兄とて、罪人と同じではないか?
叱責と断罪。リュディガーがマティアスにしたことを、マティアスがルカにして何が悪い?
先に身の丈に合わない騒ぎを起こしたのはルカなのだから。
マティアスがルカに罰を与えようとも、正義の鉄槌でしかないはずだ。
──そうだ、悪いのは兄だ。
何もかも兄が悪いのだ──とマティアスは開き直った。
「兄上。──ここで会ったがあなたの運の尽きだ」
王宮のパーティーの日に、ルカに殴りつけられた屈辱がふつふつとよみがえってくる。あの卑怯な不意打ちは死んでも忘れられない。
マティアスは帯びていた剣の鞘に手をかけると、おもむろに刀身を引き抜いた。
「今こそ、あの時の雪辱を晴らしてやる!」




