第92話 刺青
「……あの女、つくづく化け物だな」
「何と言った?」
手厳しい声に咎められて、マティアスは不本意にも一瞬、鳥肌が立つのを止められなかった。
「アレクシア様を侮辱するな。そんな発言は許さない」
「許さないとはなんだ! 兄上のくせに口の利き方がなっていな──」
忌々しそうにルカを振り返ったマティアスは、思わずぐっと喉を詰まらせた。
(は? また筋肉が増していないか……?!)
兄はマティアスのようなきらびやかな服を着てはいなかった。汚れた血筋にお似合いの、平民のような素朴な服装だ。
辺境伯令嬢の婚約者というのは真っ赤な嘘という話だったから、実際は使用人のようにあくせくと働いているのだろう。
こんな辺境の田舎で、汗水たらして労働に明け暮れるなど、実に卑しい兄にふさわしい、土くさい庶民の生き方だ。
そう見下そうと思ったのに。
どういうわけか、侮辱の言葉が続かない。
兄の質素な服の下に張った筋肉は、どんな豪奢な礼服にも勝る一番の正装だとでも言わんばかりに、存在を主張している。
流行の装いなど何も身につけていないのに、極上の蜂蜜だけを集めたようなブロンドの髪が揺れるだけで、兄は憎たらしいほど美形に見えた。
(背も……!? また伸びたのか!? いったいどういうことだ!)
ずっと見下ろしていた低い背丈が、今ではマティアスを凌ぐほどの高さにあって、無性に腹が立った。
兄はもう二十歳を過ぎている。今さら身長が伸びるだなんてありえないのに。いったいどんな魔法を使ったのだ。
マティアスが悔しまぎれにギリッとルカを睨みつけると、ルカはその何倍もの苛辣さで強く睨み返してきた。
「な、なぜそんなに睨むのです! それに、私を尋問するなどと物騒なことを──」
「僕がなぜそう言ったか、本当にわからないか?」
ルカはうろたえるマティアスから目線を外さないまま、強い口調で問いただした。
「ずっと落ち着いていた収容所の内部に、突然の異変が起こった。そのタイミングでおまえがここに現れたのを、怪しいと思わないはずがないだろう。しかも自分たちが鎮圧してみせる? いくら何でも出来すぎだ。疑わずにいられるわけがない」
「はぁ!? 弟を疑うなど、それでも兄なのですか!?」
「兄だから知っているんだ。おまえがどれだけ卑怯で身勝手で、自分の欲を満たすためなら手段を選ばないかを」
「なっ……! なんという言い草だ!」
聞き捨てならない、兄上のくせに私を侮辱する気か──とさんざんわめいてから、マティアスは得意げに胸を張った。
「私はただ助力を申し出ただけだ! リートベルク監獄が窮地に瀕していると聞きつけ、私と我が家の騎士たちが救世主になろうと……」
「窮状を嗅ぎ付けるのも早すぎるけれど……。《《我が家の騎士たち》》?」
ルカはマティアスの背後でだらだらと欠伸をする騎士たちを見回して、はっきりと首を振った。
「僕はその騎士たちに見覚えがない。一人もだ」
「兄上が知らないだけでしょう。兄上が出ていってから新たに雇った者たちですから」
「たった一年で? すべての騎士を入れ替えたのか? そんなはずがないだろう」
──もう一度だけ聞く、とルカは念を押した。
「本当に騎士か? 傭兵の刺青を入れている者たちが?」
「刺青? な、何を!? 言いがかりだ!!」
「似た刺青を入れている人たちから教えてもらったんだ」
ルカは騎士の一人に近づいていくと、さっと手首をつかんだ。
制服の丈が合っていないせいで、袖も長さが足りていない。肘の手前まで見える素肌には、うっすらと赤い顔料が乗っていた。
「僕には読めないけれど……これは傭兵たちが所属する組織を識別するために刻む刺青だろう?」
各国を放浪して活躍する傭兵たちは、しばしば所属する傭兵団ごとに同じ刺青を彫る風習がある。文字は使わずに、模様や柄を組み合わせた意匠を用いるのだと、以前話に聞いたことがあった。
同じ文様のタトゥーを体に刻むことで、仲間どうしの団結力と結束力を高めるとともに、どこの所属の者かを判別できる目印がわりにもなっているらしい。
図案の意味まではルカには読み解けないが、だらしなく着くずした制服の間に透けて見える部分から、全員が同じデザインを彫っていることは見て取れた。
「言いがかりだと言っている! 兄上には読めないのでしょう?! だったら──」
「ユリウスさん、クラウスさん、マリウスさん」
ルカが呼びかけるやいなや、大柄な三つの影が藪の中からぶらりと現れた。
傭兵たちの彫るタトゥーについてルカに教えてくれた、張本人の三人である。
「へーい、ここっす」
「お任せを、ルカ様」
「俺らにかかりゃチョロいもんよ」
ぞろぞろと連れ立って出てきた、目の錯覚かと思うほどそっくりな三人の大男に、マティアスは絶句して後ずさった。
「……!?」
三人は三人とも、強そうを通り越して凶悪そうな風貌をしている。
どう見ても監獄の中にいる方の人種じゃないのか。どうして堂々と塀の外に出ているのか。
「いやー、ルカ様もそんな怖い顔をするんすねぇ。初めて見たぜ……」
「んで? どんな刺青だって?」
「よく見せてみろよオラァ!」
マティアスが三人の迫力に圧倒されている間に、ユリウスとクラウスとマリウスはヴァルテン家の制服を着た騎士たちにずかずかと詰め寄った。
「は? な、何しやがる!?」
抵抗する騎士たちの手をあっさりはねつけ、首ねっこを鷲づかみにして、制服の片腕を力ずくで脱がせる。
あらわになった肩から腕にかけては、三匹の蛇が絡み合ったデザインの刺青が刻まれていた。蛇の尾が連なった背景に広がるのは、燃える炎の図案。
「あー、これはあれだ。グルナート王国で幅を利かせてる"猛炎の蛇蝎"じゃねーか」
「腕は立つが、ヘドの出るようなクズぞろいだって噂の一味だな」
「他国の悪名高い傭兵団をわざわざ引き連れて、リートベルクに何の用だ?」
ユリウスとクラウスとマリウスはひとめ見ただけで刺青の紋様を識別し、傭兵団の名をぴたりと言い当てた。
「ありがとう。……やはりそうか」
ルカは大きなため息をついた。
──やはりヴァルテン家の騎士たちではなかった。
ルカは正規のヴァルテン家の騎士たちに指南された経験はなかったけれど、顔は見知っている。
彼らはヘルミーネに諂ってマティアスを甘やかしてはいたが、かといって決して騎士道精神を捨てた人でなしではなかった。
いくらマティアスに命じられようとも、他領を侵害する行為に加わるほど魂が腐ってはいなかったのだろう。
「か、かかれ! こいつらの口を封じろ!」
マティアスの号令を受けて、騎士もとい傭兵たちは一斉に飛びかかった。
剣を鞘から引き抜き、傲然と斬りかかる。隠し持っていた暗器を取り出し、豪快に振り回す。
全員が明らかに肉弾戦に慣れ、武器の扱いにも長けていた。グルナート王国に悪名とどろく傭兵団に所属するというだけあって、さすがの猛者だ。
しかしながら、ユリウスとクラウスとマリウスの方が上回った。
腕力だけなら互角に近いかもしれないが、ユリウスとクラウスとマリウスはこの森の中での戦闘に慣れている。
藪に足を取られたり木々に武器を阻まれたりと躊躇する相手を、三人は派手に殴り倒し、ぶん回し、蹴散らしていった。
「オラァ! クズどもがァ!」
「大人しくお縄につけやコラァ!」
「口から手ェ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろかァ!?」
どう見ても傭兵たちよりガラが悪い。どちらが本物の犯罪者かわからない。
丁々発止の攻防の中。
相手の剣先がユリウスとクラウスとマリウスの背中をかすめた。
皮膚まで傷つけることはなかったが、リートベルク騎士団の制服が切り裂かれ、服の下の素肌があらわになる。
はらりと開帳したのは、迫力満点のタトゥー。
三者三様に異なる鮮やかな意匠を見て、傭兵たちはたちどころに半狂乱になった。
「ヒィッ! あの幻のっ!?」
「ヒェッ! こっちはまさか伝説の!?」
「嘘だろ! 実在したのかよッ!?!」
マティアスには刺青の意味はわからなかったし、傭兵たちが悲鳴まじりに発したチーム名も聞き取れなかったが、彼らにとっては恐怖におののかずにはいられない図案だったらしい。
傭兵たちがひるんだ隙を見逃さずに、ユリウスとクラウスとマリウスは一挙にたたみかけた。
足をかけ、薙ぎ払い、肘鉄を食らわせ、よろめいたところをまとめて叩き潰す。
あえなく気絶した傭兵たちがどさどさと、雪崩を打ったように連鎖して倒れていくのを見て、マティアスは目を白黒させた。
「!? おまえたち! しっかりし……」
──言っただろ、とユリウスは嘯いて、上向きに立てた太い親指をクイッと真下に向けた。
「悪党の考えることなんざ、手に取るようにわかるんすよ──ってな」




