第91話 湖畔と桟橋
「……こんな話をしている暇はない」
──先を急ぐ、と切り捨てたアレクシアに、マティアスは片頬を上げて笑った。
「リートベルク監獄が一大事ですからね。囚人たちが暴動を起こして、集団脱獄を図ったのでしょう?」
さらりと言われて、アレクシアは怪訝そうに眉を寄せた。
「暴動……? 集団脱獄……?」
そんな話は初耳だ。
領主の娘であるアレクシアすらまだ正確につかめていない現地の情報を、なぜこの男は自信満々に語っているのだ。
ただの憶測にしては余りにも確信に満ちた物言いに、疑念を抱かずにはいられない。
不信のこもった目を向けるアレクシアをよそに、マティアスはすました顔で髪をかきあげた。
「ご安心を。私には我が家の誇る精鋭の騎士たちが同行しています。いかなる事態であろうとも恐れるに足りません。必ずや、私と騎士たちが鎮圧してみせましょう!」
まるであらかじめ考えてきたセリフのような発言だ。
角度まで計算しつくした手つきと、まるでダンスの誘いをかけるような身のこなしで、マティアスは優雅に手をさし出した。
「ただ私を頼ってくださればいいのです。辺境伯令嬢、この私があなたをお守りします」
「いらない」
すげもなく、にべもなく、愛想もない。ないない尽くしの返答だった。
アレクシアは冷めた目で言い捨てる。
「ヴァルテン家の騎士たちがどれほど有能かは知らないが、地の利もない者たちに対処できるとは思えない。かえって足手まといだ」
足手まとい、と一刀両断されて、マティアスは屈辱に満ちた表情を浮かべた。
「頑迷な……! この私にそんな口を叩いていられるのも今だけだぞ……」
不満そうにぼやくマティアスを無視して、アレクシアは密かに首をかしげた。
(ヴァルテン家の……騎士?)
違和感があった。マティアスの背後にずらりと並ぶ男たちは、精鋭と誇るだけあって確かに屈強そうな集団だ。
だが、全員ヴァルテン男爵家の紋章入りの制服をまとっているものの、微妙に丈が合っていなかったり、襟元を開けてくつろいでいたりと締まりがない。
立ち姿にも凛々しさが感じられなかった。彼らは直立不動で起立することなく、だらだらと姿勢を崩している。
規律を厳しく叩きこまれるはずの騎士にしてはずいぶんと奔放だ。
いくら武門の家系ではなく商家の出だとしても、貴族の家に仕える騎士がこんなに不作法なものだろうか?
リートベルクの騎士にもガラの悪……荒々しい者たちはいるし、普段は服装も言動も比較的自由にさせてはいるが、それはあくまでも自領内に限っての話だ。他領に赴く際はきちんと襟を正させ、規律に沿った行動を取らせている。
(しかも、暴動だと? あの囚人たちが……?)
暴動が勃発し、囚人たちが集団で脱獄したと言われてもにわかに信じられないのは、アレクシアの知る限り近年の収容所内は安定していたからだ。
もちろんいくら落ち着いて見えても監獄は監獄だ。内心の不満や鬱屈は必ずあったことだろう。
しかしアレクシアや父のヴィクトルはたびたび内部の監査に赴いている。
自らの足で回り、自らの目で見聞し、自ら囚人たちと直接関わっているからこそ思うが、大規模な暴動につながるほどの鬱憤があの中にくすぶっていたとは正直考えにくい。
「辺境伯令嬢、私はあなたのためを思って言っているのです。ここは私を頼──」
いつまでも自分の手を取ろうとしないアレクシアに業を煮やしたのか、マティアスは強引に引き寄せようと前に進み出た。
だが彼女に触れるよりも先に、伸ばした手は止められる。
「──気安く触れるな」
厳しい声で言われて、マティアスはチッと舌を打った。
「兄上……!」
割って入ったルカを、マティアスは忌々しそうに睨んだ。
アレクシアが監獄へ向かおうとすることを予測して、後を追ってきたのだろうか。
ルカに背後を取られても気がつかなかった不覚に、マティアスは歯噛みする。
振りほどこうと力を込めたが、兄の拳は思いのほか頑丈で、びくとも動かなかった。
「マティアスの尋問は僕がします。アレクシア様は先に収容所の内部に」
「ああ、頼む」
アレクシアはうなずいて、一気に高台を駆け降りた。
湖畔には水域へ向かって突き出す形で、板を張った橋梁が架けられていた。
陸地と孤島のあいだに架橋はされていない。
この桟橋が、孤島とリートベルクの領地とをつなぐ唯一の波止場なのだ。
桟橋の近く、扇状になって広がる湖畔には監視台が建てられ、警備を担う役人が寝泊まりするための宿舎も設置されている。
「お嬢様!」
アレクシアの姿を見止めて、監視についていた番人がまろぶように走り出てきた。
「至急、収容所に渡りたい。舟を出してくれ」
「お嬢様、それが……」
──舟が出せないのです、と番人は困りきった様子で報告した。
「舟が? 一艘もか?」
「はい……」
この埠頭には、小さいが船溜まりも設けてある。島との往復に使う小舟を何艘か、桟橋の柱に係留してあるのだ。
それらがすべて縄を解かれ、忽然と消え失せていた。
「我々の失態です。申し訳ありません……!」
役人たちもすでに三々五々、舟の行方を探して駆けずり回っていたらしい。汗だくになりながらアレクシアに詫びる。
「誰かの仕業だな……」
舟のロープは係留用の特殊な結び方でくくられている。
強い力を加えるとかえって縄目が締まり、解けなくなるかわりに、人の手で引けば簡単にほどけるという結び目だ。いくら水面が荒れようとも、水流などで自然に外れることは考えられない。
「所内にいる看守から音信はあったか?」
「それが……それもまだ……」
この監視台と収容所の間では普段、旗や灯火などを使った信号で簡単な通信をやり取りしている。
しかし明らかに異変が起こっているにもかかわらず、内部の看守からはまだ何の音さたもないらしい。
連絡を発信できるほどの余裕さえない、ひっ迫した状況に置かれていると考えていいだろう。
「お困りのようですね。このような時こそ、この私がひと肌脱──」
「そうか、わかった」
アレクシアはマティアスが得意げにかけてくる声を完全に無視すると、孤島に首を向けた。
普段は穏やかな湖の水面は、まるで時化の時のように荒々しく乱れている。
桟橋の先端を勢いよく踏み切って、アレクシアは跳躍した。
指先から足先までが一直線にそろった、迷いのない飛び込みだった。難なく着水すると、そのまま疾風のように岸を離れていく。
「はぁぁ!?」
マティアスは目を剥いた。
貴族の男子は鍛錬の一環として水練も習わされるが、女性が泳ぐなど聞いたことがない。
それも信じられないほど速かった。まっすぐに体幹を保ったまま、アレクシアは最短距離で湖を渡っていく。
普通の令嬢でないことは知っていたが、どこまで型破りなのだ──とマティアスは背筋を粟立たせた。
「……野蛮令嬢が……!」




