第90話 場違い
アレクシアは足を止めることなく、先を急いでいた。
監獄を擁する孤島が、いつにない騒乱の気配にまみれている。
収容所の内部に何らかの異変があったことはほぼ間違いない。
自然災害の可能性も捨てきれないが、島と周辺の湖だけに災禍が沸くというのも奇妙な話だ。
まずは一刻も早く現状を把握し、父や騎士たちと連携して事態の収束に乗り出す必要がある。
急峻な山岳が連綿と続いていた。すり鉢状になって広がる峡谷の中腹に、湖面は透明な水をたたえている。
普段は巨大な鏡のように、穏やかに凪いでいるはずのその水面は今、まるで暴風雨に見舞われたかのように波立ちながら激しくさざめいていた。
「……!?」
麓野まで一気に駆け降りようとした矢先。
アレクシアの足が不意に止まった。
続いて青の瞳が驚きに開かれたのは、入り組んだ木々と緑の葉の中に、場違いに明るい金無垢の色がちらついたからだった。
「あれは……?」
見間違いかと疑うほどきらびやかな光を放つのは、全面に金箔をめぐらした絢爛たる馬車。
そして渓谷に面した高台にその豪華な車体を停め、含み笑った顔つきで湖畔を見下ろしているのは、この場に決しているはずのない男だった。
「ヴァルテン男爵令息……!?」
呼ばれて、マティアスの愉悦に満ちた顔つきがたちまち乱れた。
乱れるのも無理はない。目の前に現れたのは、マティアスがたった今、頭の中で思い浮かべていた女だったからだ。
「……リートベルク……辺境伯令嬢」
アレクシアはまるで女騎士のような、実用性を重視した簡素な服を着ていた。
王宮のパーティーの日の、美しく磨き上げて洗練されたドレスをまとった優美な装いとは似ても似つかない。
化粧っけはなく、宝石の一つも身につけておらず、髪は飾っていないばかりか無造作に結っているだけという無頓着さだ。
マティアスの中に鮮烈な記憶として残るアレクシアとは違う、地味で質実剛健とした姿だった。それなのに。
「う、美しい……!」
イメージを裏切られてさえ、胸を突き刺すほどアレクシアは魅惑的に見える。
マティアスはごくりと生唾を飲んだ。
(素朴な装いも案外、悪くはないな。自分の色に染める楽しみが増えるというものだ……!)
報復のために来たはずが、もはや目的を完全に忘れている。
(計画を完遂したあかつきには、必ずこの女を手に入れてやる!)
野蛮な女は好みではないが、そこは調教の腕の見せどころだ。
獣の角を撓めるように、この女を従順に変えてやろう──。
そう決意を新たにするマティアスを、アレクシアは不信のこもった目で見返した。
「……男爵令息、なぜそなたがここにいる?」
「た、ただの観光です。物見遊山でテュルキス王国へと渡る途中に、偶然この地を通りかかっただけで……」
「観光? 物見遊山? 令息にはリュディガーが……第二王子が謹慎を命じていたはずだが、よく王族の命令を平然と破って悠長な遊覧などできたものだな」
「そ、それは……」
マティアスは口ごもったが、アレクシアの射殺すような視線さえも、もはや欲の炎を扇ぐものでしかなかった。
早くこの女の冷たい目つきを、熱を孕んだまなざしに変えたい。
この厳しい口調を、助力を乞う哀願に変えたい。
「……」
舐るような視線を不快に感じて、アレクシアはかすかに身震いした。
無視して先に進もうとは思うものの、妙な胸騒ぎが肌を這う。この男を逃亡させてはならないと、直感がささやいている。
(男爵令息がリュディガーの命に背いてまで……わざわざこの地に……?)
馬車も場違いに派手だが、マティアスの服装も華美そのものだった。
金襴の入った長い上衣はきらびやかで、襟元は銀の糸で縁取られている。袖口のカフスに施されたボタンホールの装飾まで隙なく、高級感のある仕立てになっている。
宮殿に参内でもするのであればさぞ絢爛な装いなのだろう。
だが森の中にはまったく不釣り合いな服で、周囲の緑にまったく溶け込んでいなかった。
馬車も同じく目に痛いほど金ぴかの色彩で、豪華すぎて目まぐるしい。
「……随分と豪勢な旅支度だな」
場にそぐわない、という意味で言った言葉だったが、マティアスは褒められたと受け取ったらしい。鼻を高くして、胸を張る。
「ええ、そうです。見事でしょう?」
勇ましく強がっていても女は女だ──とマティアスは余裕綽々で笑んだ。
(案の定、私に見とれているな……。当然だ! 女は権力と財力のある男に守られたいと望んでいる生き物だからな!)
マティアスがこれまで落とした女たちも同じだった。たとえ最初は気のないそぶりでじらしていても、贅を尽くした品々を見れば目の色が変わる。
そう。金はすべてのドアを開く、と言うではないか。
金の魅力に抗える者はこの世にはいない。お高くとまった辺境伯の令嬢であろうと、例外ではないのだ。
マティアスの真新しい上衣のポケットチーフにあしらった大粒の宝石が、ぎらりと存在を主張する。
この石の一顆だけで、目を輝かせて媚びてくる女がどれだけいることか。
「こんなものはほんの一部にすぎません。私を選べば、あらゆる金銀財宝があなたのものになるのですよ」
「どうでもいい。今はそなたの相手をしている場合でもない」
素っ気なく言われて、マティアスは虚をつかれたような顔をした。
「……あなたを慕って遠路はるばるここまで来た哀れな男を、そうも無得にすることはないでしょう?」
つい先ほど、偶然通りかかっただけと言ってはいなかったか。
やはりアレクシア目当てでここまで来たということらしい。その場しのぎの嘘をつかないで、設定は統一してほしい。
「これは神のお導きです。あなたの窮地を救うべく、天が私をこの地に遣わされたのです──」
神やら天やらに飛躍してきた。
ぶれ続ける設定にアレクシアはとっくにうんざりしていたのだが、マティアスの方は俳優にでもなったかのようなもったいをつけた身振り手振りで、決めセリフと思われる言葉を高らかに放った。
「私こそがあなたの運命なのです。どうかこの想いを受け取ってください。美しきリートベルクの姫君。──愛しています」
返答すら億劫になって、アレクシアは額を押さえた。ため息しか出てこない。
「……」
マティアスはたった今、まるで舞台に上がった役者のような気取った口調で「愛している」と吐いたが。
この男の兄からも、アレクシアは同じ言葉を告げられたことがある。
『アレクシア様……好きです』
あの夜。ヴァルテン男爵邸の貴賓室で。
ほとぼる心臓に手を当てて、ルカはアレクシアの顔をまっすぐに見上げた。
『誰よりも愛しています』
透き通った瞳。曇りのない表情。
どこまでもまっすぐなルカの瞳は、視線を反らすことができないほど純粋に澄んでいた。
『……偽者の婚約者なのに……僕をかばってくださってありがとうございました』
あの時は何と返していいかわからずにとまどったが、嫌ではなかった。迷惑だとも思わなかった。
だから、自分は案外甘い言葉をささやかれるのが嫌いではないのかもしれない……などとさえ思っていたのだが、とんでもなかった。
ルカの「愛している」と、この男の「愛している」はまったく違う。
兄の真摯な告白に比べて、弟の軽薄な台詞のなんと軽いことか。
この軽薄な男に上っ面だけの愛を捧げられても、嫌悪感しか感じないということがよくわかった。




