第89話 金はすべてのドアを開く
この国には「金はすべてのドアを開く」ということわざがある。
金は万能。地獄の沙汰も金次第。財力で実現できないことはない。あらゆる扉を開けるように、どんなことだろうと可能になる──という意味だ。
それなのに。
この状況はどういうことだ。
マティアスはぶつくさと不満をこぼした。
「まったく、なんて辺鄙なところなんだ……」
あたりは見渡す限り山と森と湖ばかりだ。
辺境とは聞いていたが、ここまで何もない田舎だとは思っていなかった。
いや、何もない田舎ならまだいい。このあたりは余りにもひどい難所続きだ。
切り立った崖に、崩壊した坑道、崩れた土砂で埋まったままの街路。
こうして立っているだけでもやぶ蚊が集まってきて、払っても払ってもきりがない。都会育ちのマティアスには不快しか感じられなかった。
(馬車ならもう一台持ってきてはいるが……あちらに乗るわけにはいかないからな……)
とにかく一刻も早く自分用の馬車の脱輪を直すよう、恫喝を重ねるマティアスの前で、複数の人影がゆらりと揺れた。
「イラついてんねぇ、お坊ちゃまは」
揶揄するように下卑た笑いを浮かべるのは、ヴァルテン家の紋章の入った騎士の制服に身を包んだ男たちだった。
「別に馬車なんかいらねぇけどな。どうせオレらが乗るわけじゃねぇし」
「こんなところでグズついてないで、自分の足で歩いたらどうっすかぁ?」
「おまえたちと一緒にするな! 私は貴族だぞ!」
マティアスは苦々しそうに顔をしかめて、男たちを一喝した。
「それよりも、わかっているんだろうな? こっちは高い金を払っているんだぞ!」
「はいはい、わかってますよ」
おどけるように肩をすくめて応じた男たちは、なぁ、と顔を見合わせる。
「俺らも長年この家業をやってるが、こんな金払いのいい客は初めてなんでね」
「何だってやってやるぜ。もらえるモンさえもらえればな」
下品なだみ声にうんざりしながら、マティアスは長旅でべたついた髪をぐしゃっとかきあげた。
(まったく下賤な連中だ……)
あの王宮のパーティーの日以来、マティアスは二つの思いにとり憑かれていた。
一つは兄のルカへの復讐心。
そしてもう一つはリートベルク辺境伯令嬢への、消し去りがたい執着心だった。
(兄上め……。この私に手をあげたこと、絶対に許さないからな!)
マティアスはルカを兄として敬ったことはなかったが、これまではとりわけ憎いとも感じるほどでもなかった。兄はマティアスの脅威ではなかったからだ。
兄がマティアスよりも上なのはただ年齢だけ。あとは血統も容姿も頭脳も剣の才能も、何もかもマティアスが上回っていると自負している。
父の後を継いで男爵家の当主になるのもマティアスだ。
平民の血が流れる兄には、爵位はもちろん財産の一銭たりとくれてやる気はない。
父が若気の至りで作った私生児など、正当な貴族の血を汲むマティアスの下で、ずっと平身低頭していればよかったのだ。
それなのに。
忘れもしない王宮のパーティーの日。
ルカはあろうことか、マティアスを殴り飛ばした。
これまではただ軽んじ、馬鹿にし、どう扱ってもいいとたかをくくっていた兄への感情は、一気に強烈な憎悪へと反転した。
兄に突然殴りつけられたことが悔しい。
公の場で恥をかかされたことが恨めしい。
見違えるように垢抜けて、周囲の注目を浴びていた兄が許しがたい。
(辺境伯令嬢の前だからと見栄を張ったのだろうが……不意打ちで暴力をふるうなど、人として最低の狼藉だろうが!)
マティアスの中では、自身が幼い頃から数えきれないほど兄に不意打ちの暴行をくり返してきたことは「人として最低の狼藉」にはカウントされていないらしい。
ただ一度自分が殴打された事実をどうしても許すことができずに、収まらない敵愾心を燃やし続けていた。
兄にいま一度、自分の立場を「わからせて」やらなくては──。
そう固く報復を誓ったマティアスの中に、もう一つの妄執が蛇のように鎌首をもたげた。
兄がパートナーとしてエスコートしていた、美しくも野蛮な辺境の姫君。
(あの女が欲しい。手に入れたい……!)
マティアスに恥をかかせたのは辺境伯令嬢も同じだ。
彼女のことも憎いが、彼女に対して感じるのは憎悪だけではない。疼く胸の想いを打ち消すことができなかった。
マティアスを見下ろしたあの長身をひざまずかせ、服従を誓わせたい。
マティアスを愚かだと暴言を吐いたあの薔薇色の唇に非礼を撤回させ、謝罪させたい。
その欲求は時間が経っても萎えるどころか、日に日に強くなるばかりだった。
(あの女の口から、私を愛していると言わせてみせる──!)
初めて手折ることのできなかった花は、マティアスにとって執念じみた欲望の矛先となっていた。
これまでマティアスが軽い気持ちで弄んできた、どんな女も比べ物にはならない。
どんな手段を講じてでも、あの美しい花を摘み取りたい。
他の男に──とりわけ兄に奪われることだけは我慢がならない。
優れたマティアスが劣った兄に負けることなど、決してあってはならないのだから。
「兄上、いい気になるのもここまでです。あなたの嘘はもう露見しているのだから──」
マティアスには切り札があった。
もうすでに、とっておきの情報をつかんでいたのだ。
あの忘れられないパーティーの後日。人目を忍んでこっそりと会いに行ったクレーフェ伯爵邸にて。
婚約者のナターリアの口から、マティアスは聞いたのだ。
──ルカは本当はリートベルク辺境伯令嬢の婚約者などではないのよ、と。
『私、聞いたの! 本当よ! あの高慢な女と婚約なんかしていないって、ルカ自身が認めたの!』
格上の家の令嬢を「あの高慢な女」と呼ぶのはいかがなものかと思うが、自邸内かつ人払いをしていることもあり、ナターリアに遠慮はなかった。
『私にはわかっていたわ。すぐに見抜いたもの! あの二人は偽の婚約者なのよ!』
ナターリアは胸を張って、自らの炯眼ぶりを誇っていたが、マティアスは我が意を得たりとばかりに膝を打った。
(やはりな!)
卑しい出自の兄が、辺境伯の令嬢を射止めるはずがない。
不釣り合いで怪しいとは思っていたが、やはりそうだったのか。
兄は本物の婚約者などではなかった。あのパーティーの日だけのかりそめの関係だったのならば納得だ。
(あの二人が本当にデキていないのならば、勝算はいくらでもある!)
何しろマティアスはヴァルテン男爵家の後継者なのだ。
ヴァルテン家の有する巨万の富は、すべてマティアスが相続することになる。
この国には「金はすべてのドアを開く」ということわざがある。
金は万能。地獄の沙汰も金次第。財力があればあらゆる扉を開くことができる。
この世はすべて金で動いているのだ。札束で顔を叩いて動かせない相手はいない。
どんな綺麗ごとを言おうと、成金と陰口を叩こうとも、金の力でできないことは存在しない。
あの女を陥れるためならどんな贅沢な手段だろうと辞さない。
それを可能にするだけの潤沢な資金がマティアスにはあるのだ。
母のヘルミーネはマティアスがねだれば、いくらでも金を都合してくれた。
小遣いと呼ぶのには高額すぎるほどの大金を惜しみなく投じれば、自らの手を汚さずともあらゆる扉を開くことが可能になる。たとえば──。
そう悦に入った時だった。
心待ちにしていた爆音が、あたかもマティアスの勝利を歌う祝砲であるかのように、華々しく打ち上がった。
「来た!」
視界の端に遠く、薄煙がたなびいた。
煙が立っているのは、北方に広がる湖の中心。
黒くわだかまる粉塵が、よどんだ薄鈍色の空をさらに汚しながらじわじわと広がっていく。
マティアスは狡猾に笑んだ。
「──リートベルク家もこれで終わりだ」




