第88話 不吉な予感
城の上にかかる空は、薄鈍色の雲で覆われている。
風鳴りがして、乾いた空気が吹き込んでくる。藹雲が西へと流れながら、墨色を濃くしていく。
まだ暑気が厳しく残る時季だというのに、山脈は重たく立ちこめた天穹に蓋されて、不自然に荒涼として見えた。
「……嫌な空だな……」
妙な胸騒ぎがして、アレクシアは愁眉を寄せた。
「お嬢様がそんなことをおっしゃるのはめずらしいですね」
首をかしげたのは執事のエヴァルトだった。封をした書類の束を小脇に抱えながら歩み寄ってくる。
「空気が澱んでいる気がするのだ。災厄の前触れかもしれない」
「見回りを強化いたしましょうか」
「そうしてくれ。何かあってからでは遅い」
「かしこまりました。ではその前に一点だけ。──ご依頼の報告書です」
──ありがとう、と礼を言ってアレクシアはエヴァルトのさしだした書類を受け取ると、封を開けた。
記載された文章に視線を走らせた青い目が、たちまちのうちに翳る。
「……これは……」
待っていた報告だったにも関わらず、アレクシアはしかめた眉間に手をやった。
「……うーん……そうか……」
「懸念は深まりましたね」
冷静沈着な執事らしからぬ不穏な汗をかいて、エヴァルトは銀縁の眼鏡をくいっと押し上げた。
「思った以上に泥沼かもしれません。うかつに手を出せば、こちらが逆に付け入られるおそれもありますが、いかがいたしますか?」
「必ず好機は来る」
アレクシアははっきりと言いきって、エヴァルトに命じる。
「引き続き行方を追ってくれ。今はまだ動ける時ではないが、きっと切り札として使える日が来るはずだ」
かしこまりました、とエヴァルトが折り目正しく答えた瞬間だった。
アレクシアの漆黒の髪を揺らして、風が一陣、吹き抜けた。
それが、先ぶれだった。
風は生ぬるい湿気を孕み、蛇のように鎌首をもたげる。
須臾を待って、閃光が地平線を走った。
はじめはほんの飛沫のように、小さく弾けただけだった光のかけらが、またたく間にふくれあがって、北西の方角をのみこむような衝撃に変わった。
「……!?」
続いて、天を劈くような轟音が鳴り響く。
大気を揺り動かすほどの衝撃が起こったことはすぐにわかった。わかったが、何かがおかしい。
震災のたぐいならば、自分たちが立っている場所も同様に揺れるはずだ。
だが足元の岩盤はいささかの揺らぎもないにも関わらず、北西の地点だけに鮮烈な脈動がほとばしっている。
「何が起こった?!」
アレクシアは青色の瞳を、震源地の方向へと向けた。
「この方角は……? 収容所か?」
城を北上した先には、リートベルク領内でも最大の規模を誇る湖が広がっている。
湖の中央に隆起した孤島が戴くのは、王国内でも最恐と畏怖される堅牢強固な監獄。
そのリートベルク収容所に、何か異変が起きたのだろうか。
「エヴァルト、すぐお父様に知らせてくれ! 私は先に現地へ向かう」
「はい!」
エヴァルトに命じて、アレクシアは手早く自らの剣を佩いた。
「騎士団はお父様の指示に従うように。数名は私に付けてくれ。騎士たちの出撃が済んだら、速やかに籠城の準備を」
「籠城……ですか?」
「ああ。外に出ている使用人たちは至急、帰城させろ。全員が戻ったら跳ね橋を上げ、城門を閉ざすんだ。安全の確認ができるまで、しばし籠城していてくれ」
「承りました。──お嬢様は」
「私のことは心配いらない」
毅然と言って、アレクシアは城壁を飛び降りた。
そのまま下に広がる森に着地するやいなや、地面を蹴って一気に藪の中を駆け抜ける。
地平線の彼方に広がる湖へと近づくうちに、厄災の匂いはますます濃くなっていった。
北方の湖上に渦巻く空気が、かつてないほど淀んでいる。
薄煙が細くなびき、血糊の匂いが風に乗って、この森の中まで漂ってくる。
すべるように峠を越え、山肌を一気に駆けあがったアレクシアの瞳に、紺碧のきらめきが映った。──湖水だ。
かすむ遠景に茫洋と浮かんで見えるのは、いびつな楕円の形をした島と、煉瓦を積んで築かれた高い塀。
塀の内部は高い鉄柵にぐるりと取り囲まれ、奥には城砦のような黒色の館が建っている。
それらを一望のもとに鳥瞰して、アレクシアは目を見開いた。
「これは……!」
罪人たちを収容する監房は縦横に交差して、Xのような形になって作られている。
中央に位置する監視室から、四つの獄舎を同時に見わたせる仕組みになっているのだ。
その要である中心部分が無惨に半壊し、崩れ落ちているのが対岸からでもはっきりと見て取れた。
黒くくすぶる粉塵は、まさにその中央から生じて続々と噴き上がってくる。
アレクシアは慄然とした。
「監獄が……焼け落ちている……!」
***
マティアスはいらいらと足を踏み鳴らした。
「おい! まだなのか!?」
吠えるマティアスの目の前には、ヴァルテン家の紋章がきらめく最新の馬車。
細部にまでこだわって発注した車内には、壁にも天井にも鮮やかな装飾画が描かれている。小窓には最高級の玻璃を入れ、車体のみならず車輪にまで金箔を貼りめぐらせた、一級品の拵えだ。
一級品の拵え……なのだが、その芸術品のような車輪は今、深い轍に取られたままびくとも動かない。
屈強な男たちが数人がかりで馬車を押して道に戻そうとしているのを、マティアスは額に青筋を浮かべながら不機嫌に監視していた。
「早くしろ! いつまで待たせるつもりだ!」
男爵邸を経ってから、およそ十日ほど。
リートベルク辺境伯領への旅路は、日を重ねるほどにより過酷なものになっていった。
街道はかろうじて石で舗装されているものの、劣化と老朽化がひどい。景観が豊かな緑に包まれていくほどに、難路はさらに厳しさを増した。
山の天気は変わりやすく、しばしば篠つくような雨が降る。雨で道がぬかるむだけでも不快だというのに、さらに溜まった水が土砂崩れを招き、道を埋めて行く手をふさいでいた。
マティアスは怒りのあまり御者たちを罵ったが、いくら怒鳴ろうともそれ以上先に進むことはできなかった。
仕方なくその道を避けて迂回した結果、いつのまにか狭いけもの道に入り込み、さらに大きくくぼんだ轍に車輪がはまって、うんともすんとも動かせなくなった──というのが現在の状況である。
本当は馬車を降りたくなどなかったのだが、人が乗ったままでは動くものも動かせないと言われて、しぶしぶ外に出るしかなかった。




