第87話 マティアスの失踪
薫るような南風が吹き過ぎ、畑水沸く夏が果てる時季。
ヴァルテン男爵邸には、愛息子を探すヘルミーネの声が響いていた。
「マティアスはどこ!? いったいどこへ行ったの!?」
愛する息子マティアスの姿が見えない。
複数ある彼の私室はすべて無人で、置き手紙のひとつも残されてはいなかった。
あの忌々しいパーティーの日の後、第二王子リュディガーに当面の謹慎を命じられてから。マティアスはしぶしぶと謹慎生活を送ることになった。
自宅軟禁のような状態であるが、もちろん男爵邸の中は自由に闊歩している。
彼の退屈を癒すために、ヘルミーネはマティアスが欲しいと望むものは何でも、好きなだけ買い与えた。
男爵家の所有する土地ならば謹慎を破ることには当たらないだろうと判断し、国内各地にあるヴァルテン家の別荘にも何度か静養に行かせた。社交界への出席は控えているのだから充分だろうという解釈だ。
マティアスは家令や執事に命じて、何かの行商人のような一団を呼び寄せ、連絡を密に取っているようだった。
何の商団なのかはわからなかったが、それでマティアスの気が晴れるならと、詮索することなく好きにさせている。
マティアスのような前途有望な若者が、籠の鳥のように自由を奪われているなど本当にかわいそうだ。
心の傷が少しでも慰められるのなら、金などいくらでも使えばいい──とヘルミーネは思っていた。
そんな日々をしばらく過ごした頃。
──謹慎生活などもう飽きた、とマティアスは口をとがらせて拗ね、憂さ晴らしがしたい、と母に訴えてきた。
可愛い一人息子から金を都合してほしいとねだられて、ヘルミーネが拒否するはずもない。息子の望むままにたっぷりと小遣いを渡した。
「きっと気晴らしに出かけたのね……。無理もないわ」
さすがに自邸に閉じ込められる日々には限界が来たのだろう、とヘルミーネは理解を示す。
その証拠に、厩舎からは馬が数頭、車庫からは馬車が二台消えていた。
馬は高額で買った選りすぐりの名馬で、馬車はつい最近新調させたばかりの、贅を尽くしたきらびやかな馬車だ。
マティアスの無聊を慰めるために、謹慎中に仕立て屋を呼んで新しくあつらえた服や靴も数点なくなっていた。
きっと退屈しのぎに、どこかの別荘に羽を伸ばしに行ったのだろう。
──あの第二王子さえ知られなければ好きにしてかまわない、とヘルミーネは思うが、とはいえ行き先くらいは把握しておきたかった。
「一言くらい伝えてくれたっていいのに……。あの子ったら、私が止めるとでも思ったのかしら」
ヘルミーネは銀製の呼び鈴を手に取る。
マティアスを心配するあまりに探し回っていたら、喉が渇いてしまった。
チリンと鈴を鳴らして、メイドを呼ぶ。
「……遅いわね」
ヘルミーネはいらいらとぼやいた。
いつもならすぐにメイドが駆けつけてくるのだが、最近のヴァルテン男爵家は使用人の入れ替えが激しい。
なぜかはわからないが、あの辺境伯令嬢が来た日以降から、辞職を願い出る者が相次いでいるのだ。
せっかくそろえた一流の使用人たちが、櫛の歯が欠けるようにぽろぽろと辞めていく。
人員を補充するよう家令や執事に命じてはいるが、人手不足は解消されないままだった。雇ったばかりの新人たちの教育も行き届いていない。
「奥様、失礼いたします!」
ようやく現れたのは、その新人のメイドだった。
いかにも田舎から出てきたばかりらしい、垢抜けなくて野暮ったい小娘である。まだ着慣れないお仕着せはぶかぶかで、走って来たのか息を切らしている。
「お茶を淹れてちょうだい」
「はい! かしこまりました!」
(こんな冴えない田舎娘が我が家のメイドだなんて、嫌になるわ……)
あのめざわりなルカと居丈高な令嬢のせいで、ヘルミーネの鬱憤が溜まる一方だ。
だからメイドたちに当たり散らすことも多かったけれど、たかがその程度がなんだというのだ──というのがヘルミーネの持論である。
ヴァルテン家ではどこの貴族よりも高い給金を払っている。少しくらいの我慢は賃金のうちだろう。
別に辞めたいというのなら辞めればいい。高給に惹かれて、ヴァルテン家で働きたいと志望する者なら大勢いる。
こらえ性のない使用人など、こちらからお断りだ。
平民などいくらでも代えのきく、消耗品のようなものなのだから。
「奥様、お待たせいたしました」
先ほどのメイドが、慣れない手つきであたふたと銀の盆を運んできた。
香り高い紅茶を味わうと、ようやく少し気分が落ち着く。
(旦那様ともう一度、ちゃんと話をしなくてはいけないわね……)
第二王子にはいい加減にマティアスの謹慎を解いてもらいたいし、悪いのはあの生意気な辺境伯令嬢と、彼女の威を借りる憎たらしいルカの方なのだと、正式に抗議したい。
そのためには当主であるアウグストの名前が不可欠なのだ。
これまではいくら頼んでも首を縦に振ってくれなかったけれど、今日こそは夫ときっちり話を詰めなくては。
「旦那様にお話があるのだけれど。この後、執務室に行くと伝えてちょうだい」
ヘルミーネがそう命じると、メイドは太い三つ編みを揺らしながらおどおどと答えた。
「あの、奥様。旦那様は今、お医者様の診察を受けていらっしゃいます」
「医者? また?」
アウグストは以前のように無断でふらりと外泊する機会は減ったが、そのかわりたびたび屋敷に医師を呼ぶようになった。
ヴァルテン家にはお抱えの医師が常駐しているので、いつでも診察が受けることができるのだが、彼らが長年診ていてもアウグストの気鬱は良くなるきざしがない。
そのため最近は外部の医者に頼ることも増えた。王都でも名の知れた評判の医師を屋敷に招き、往診を受けているのだ。
とはいえアウグストはふさぎこんでいるだけで、特に身体に疾患があるわけではないから、治療といってもできることには限りがある。
せいぜい脈拍を取ったり、問診をしたり、瀉血をしたり、気晴らしの運動や滋養のある食べ物などをすすめられるくらいだ。
「あんな治療……意味があるのかしら……」
アウグストの気鬱の症状が一向に良くならないのはヘルミーネのせいなのだが、本人は自分が原因だなどとは夢にも思わない。高い謝礼を払っているのに、患者を治せないやぶ医者なのだと思っている。
「具合が悪いのならいつまでも当主の座にしがみついていないで、早く私のマティアスに爵位を譲ればいいのに!」
結婚前に私生児は作るわ、正統な跡継ぎのために戦ってもくれないわ、なんてひどい夫で父親なのかとヘルミーネは怒りを抑えきれない。
あの人は大切な《《一人息子》》の将来がどうなってもいいとでもいうのだろうか?
「ああ……頭痛が……」
怒りが収まらない。ストレスのあまりに血圧が上がって、頭まで痛み始めた。
ヘルミーネは盆を持ったまま立っているメイドをきつくにらんだ。
「そこの!」
「は、はい!」
「旦那様を診た医者を呼びなさい!」
「か、かしこまりました」
メイドはばたばたと部屋を出て行くと、しばらくしてから戻ってきた。
「奥様、お医者様はつい先ほどお帰りになったそうです」
「呼び戻しなさい!」
メイドはどんくさく転びながら、再び飛び出して行った。
男爵の次は男爵夫人も診ろと命じられた医師は、億劫そうにため息を吐きながらもう一度戻ってくる。
メイドたちがあわただしく行き交う部屋の中。
医師はだるそうに、気付け薬や医療器具の入ったカバンを開けた。頭痛にいらだつヘルミーネに叱責されながら、彼女の脈を取り、いくつかの問診をしていく。




