第86話 父と娘
傾きかけた西日のさしこむ、辺境伯の執務室にて。
書斎の椅子に腰かけたヴィクトルは、けわしい顔つきで両腕を組んでいた。
父の前に背筋を正したアレクシアは、今回の王都滞在中に見聞したあれこれについて手短に語った。
王宮のパーティーでのこと。ヴァルテン男爵家を訪問したこと。オステンブルク公爵家でのお茶会のこと。大図書館で知った情報の数々──リートベルクで実現したいと願っている、新しい研究発表。
「なるほど……」
ヴィクトルは黒髭の生えた顎をさすりながら、神妙に相槌を打った。
「成功する保証はないが……おまえは挑戦したいと思っているのだな」
「はい。そう思っています」
アレクシアは即座にうなずいた。
「以前にお父様がおっしゃっていたことも勘案すると、決して無謀ではないと信じています。賭けに出る価値はあるかと」
「賭けか……」
ヴィクトルは筋肉質の巨躯を揺らしてしばし思案し、わかった、と首肯した。
「いいだろう。おまえの思うように動きなさい」
「はい」
「言っておくが、一人で完遂しようなどとは思うな。目的を達成したいのなら、使えるものは躊躇なく使え」
「いえ。お父様の力を借りる気はありません。今回の件はすべて私の一任で……」
「何を甘いことを言っている」
アレクシアがまだ言い終わらないうちに、ヴィクトルは眼光鋭く制した。
「我が家の力を使えば決して不可能な話ではないだろう。ちょうど人選には心当たりがある」
「しかし……」
アレクシアは逡巡した。
父に相談を持ちかけたのは了承を得るためであって、力を借りようとの意図ではない。
「当主などというものはな、責任を取るためにいるのだ」
ヴィクトルは厳然と言った。
「失敗はしてもかまわない。だから、後悔はしないようにしなさい」
「はい。お父様……」
「何を急いている? おまえらしくないな」
ヴィクトルはいつになく怒りと嫌悪感に駆られた様子の娘を怪訝そうに見下ろした。領主ではなく、父親の顔で。
「何かせずにはいられないのです……。お父様、ヴァルテン家は聞きしに勝る富豪でした」
「そうだな。ヴァルテン商会と言えばかつては飛ぶ鳥を落とす勢いの豪商だったらしい。叙爵されて以降、一族の人間は徐々に事業の一線から退いたようだが、今でも並の伯爵家や侯爵家より裕福といっていいだろう」
ヴァルテン家の初代当主は卓越した商才を発揮して巨万の富を築き、金を生み出す「錬金術師」とさえ言われた人物だ。
ただやみくもに資産を溜め込んだだけではない。慈善事業や貧民救済も広く行い、莫大な私財を投じて戦後の財政難に悩む王家の窮状を救いさえした。
平民出の成金と蔑まれてはいるが、名ばかりの貴族たちよりもよほど国のために貢献した人物である。
二代目、三代目と代が下るとともに当主は直接の経営から遠のき、現在の当主であるルカの父は名目だけの総帥であるようだが、その財産は死蔵されているわけではなく、優秀な管財人たちによって適切に運用されているという。
おかげで一族の人間は何もしなくても、ほぼ永続的に収入を得ることができるのだと。
ヴァルテン男爵家の羽ぶりの良さは、一度屋敷に訪れただけのアレクシアにもよくわかった。
敷地の面積こそはオステンブルク公爵家の方が広大であるものの、内装の豪華さは勝るとも劣らない。
いや、おっとりとした家風のオステンブルク家よりも、ヴァルテン家の方がより贅を凝らしていると言えるかもしれない。
「男爵邸は公爵邸にさえ見劣りしないほどの豪邸でした。ですが、ルカは実家のあり余る財力の恩恵を何一つ受けてはいません。……まさかあれほど劣悪な環境で過ごしてきたとは……」
「……やはりそうだったか」
「想像以上でした。ヴァルテン男爵はルカをいない者のように扱い、夫人は実子だけを溺愛してルカを虐げ、弟は臆面もない嘘で兄を貶めていました。あんな恥知らずな家族の元に、ルカを二度と帰したくはありません」
マティアスは息を吐くようにルカを見下していたし、それはヘルミーネも同様だった。
計算や策略すらろくに感じられない、露骨で稚拙な悪意。
あの息子と母親がもう少し賢ければ、建前だけでもアレクシアの前でルカを下げるような言葉は口にしないだろうし、マティアスの肖像画だけを派手に飾りつけたサロンにも案内しないだろう。
そうした考えなしの発言や、表向き取りつくろってはいたものの穴だらけの行動は、しみじみとルカの長年の苦労をしのばせた。
ルカ自身が強い恨みを抱いていないからこそ、アレクシアはかえって怒りを覚えずにはいられなかった。
「ルカ君も気の毒にな……」
ヴィクトルも眉間をしかめた。
娘はどうやら、訪れたヴァルテン男爵の邸宅で、ルカが冷遇されてきた揺るがぬ証拠を目の当たりにしたらしい。
ヴァルテン家の酷薄な仕打ちは、ヴィクトルにとっても噴飯ものだ。
いくら平民との間の子でも、男爵が認知した息子だろう。あれほど素直で気立てのいい子を、生まれだけを理由に虐げる者の気が知れない。
ヴィクトルの若い頃から「シェンバッハ伯爵家のヘルミーネ」といえば風聞が悪かったが、年を取っても性根は変わっていないらしい。
いや、元から高慢な性格だった彼女が下手に大富豪の家の女主人になったことで、さらに歯止めがきかなくなったのだろうか。
夫が結婚前に作った私生児を、妻が快く思わないのは当然かもしれないが、ルカの存在は男爵との婚約前からわかっていたはずだ。
継母になることを了承して結婚したにもかかわらず、ルカにはミドルネームすら許さず、邸内にはたった一度訪れただけのアレクシアが怒りに震えるほどあからさまに迫害してきた証拠が残っている。
さすがに女主人として狭量だと言わざるを得ないだろう。
元々怖いヴィクトルの顔面が、いっそう恐ろしく殺気立った。
常人なら腰を抜かすほど鬼気迫る表情に浴びせられたのは、娘からの感謝の言葉だった。
「お父様。ありがとうございます」
素直な言葉だった。
衒いのないまっすぐな瞳に、ヴィクトルは己の耳と目を疑う。
「……突然どうした?」
「やっと本当に知った気がするのです。私は恵まれているのだと」
アレクシアは侯爵と同等の地位を持つ父と、名門公爵家の元令嬢である母との間に生まれた。
両親は貴族でありながら、相思相愛で結ばれた夫婦だった。母のルイーゼと過ごした時間は短かったが、深い愛情を注がれていたと実感している。
アレクシアは伯母のエリーゼや叔父のシュテファンにもこよなく可愛がられたし、王子であるリュディガーとも親しく育ってきた。
アレクシアは両親の唯一の子だ。兄も弟もいないが、女に生まれたことを責められたことは一度もない。
辺境伯の重責が女に務まるのかという批判は、外部から言われたことこそ数えきれないが、父は当たり前のようにアレクシアを後継者に据えてくれた。
ルイーゼが亡くなってから、ヴィクトルに再婚を薦める話がたびたび持ち込まれていることは、アレクシアも知っている。
ヴィクトルはルイーゼ以外の女性を愛することはなく、今でも独り身を貫いているが、もしも周囲の圧力に負けて後妻を娶っていたなら、アレクシアにも継母という存在ができていたのだ。
仮に異母弟が生まれていたなら、辺境伯の継承権も弟に移る。そうなればアレクシアの人生も大きく変わっていただろう。
継母が増長してアレクシアを虐げることを、ヴィクトルがみすみす許すとは思えないが、ヴァルテン男爵とて最初はルカを大事に育てるつもりで屋敷に引き取ったのだろう。
必ず初心を貫けるかどうかなど、その時になってみなければわからない。
誰しもが男爵のように気鬱に苛まれて無気力に陥る可能性が、絶対にないなどとは決して言えないのだ。
自分が恵まれていることを、アレクシアはわかっていた。ちゃんと理解しているつもりだった。
だが、自身に責任のない生い立ちのためにずっと虐げられてきたルカの境遇を目の当たりにして、ようやく本当の意味でそれを痛感した気がした。
慈しまれ大切に守られて、まっすぐに育つのは簡単なことだ。
けれどあれほど酷薄な悪意を向けられ、理不尽な侮蔑にさらされて、それでも屈折することなく綺麗に育つのは、奇跡なのではないだろうか。
アレクシアが両親に愛されてきたことも、虐げられずに育ったことも、自分自身の努力の成果でもなんでもない。ただ幸運だっただけだ。
ルカに比べて自分はなんと恵まれた境遇にあったのだと、今さらながら恥じ入るような思いがした。
──ありがとうございます、ともう一度、アレクシアは父に礼を言った。
「お父様とお母様の子に生まれて、私は幸せです」
ヴィクトルは硬直する。
アレクシアが一礼をし、きびすを返し、部屋を出て行ってもまだヴィクトルはでかい置物のように固まったままだった。
「聞いたか……ルイーゼ! うちの娘があんなことを……!」
がばっと立ち上がると、ヴィクトルは書斎の机に置いてあるルイーゼの肖像画に話しかけた。
ルカの不遇はヴィクトルとて許しがたいが、そのおかげで娘から親冥利に尽きる言葉をもらうことができた。
「ルカきゅんありがとう……!」とつぶやきながら、妻の絵を太い腕に抱きしめた巨体がごろごろと床を転がった。




