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【受賞・書籍化】追放された末端令息は辺境の野蛮令嬢に一目惚れする  作者: 朝森さな


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第9話 辺境への旅路

 ヘルミーネが手配すると言っていた馬車は、貴族が乗るような豪奢なものではなかった。木製の荷台に皮の幌をかぶせた、平民の使う乗り合い馬車だった。


 座席はなく、乗客は荷台に詰め合って座る。みすぼらしい板張りの床は、車輪が回るのに合わせてぎしぎしと軋んだ。


 夜は宿場町に立ち寄るが、屋根のある場所で休むのは馬だけだ。


 馬は旅路の命綱なのでしっかりした厩舎を借りて餌と休養とを取らせなくてはならないし、不用意に外につなげば盗難の恐れもある。


 ふところに余裕のある乗客は自腹で宿を取ったが、それ以外の人間は野宿でやり過ごす。


 ルカも同様だった。十日間ほどをそうして過ごしたが、思ったほど身体が辛いとは感じなかった。


 痛いのは心だった。


 踊るように揺れる野営の焚き火をぼんやりと見つめている時や、馬車の幌の破れ目から何とはなしに空を見上げている時。


 不意に見慣れた顔が、痛みとともにルカの脳裏をよぎった。


 もう二度と会うことはないであろう、元婚約者の面影。


(……ナターリア)


 ナターリアとは両家の合意の上で結ばれた婚約だった。

 

 燃えるような恋に落ちたわけではないし、永遠の愛を熱く誓い合ったわけでもない。


 だが、期待はしていた。結婚してヴァルテン男爵家を出れば、ルカはもっと平穏に暮らせるのではないかと。


 クレーフェ伯爵家はルカが庶子であることは承知の上で婚約を承諾してくれた。


 伯爵夫妻には息子がいない。だから長女のナターリアを、成人したら爵位を継がせて女伯爵とするつもりで育ててきたのだ。


 爵位の相続は男子が優先されるが、女子にも相続権はある。男子のきょうだいがいないなどの条件を満たせば、女子も王家より叙爵を受けて女当主となることが許されている。


 ナターリアの結婚相手はクレーフェ伯爵家に婿入りすることが必須条件。その点、ルカが実家を離れて他家の人間となることに異を唱える者はいない。


 特に継母のヘルミーネは反対などするはずもなく、早く出て行けと言わんばかりに、乗り気で話を進めさせていた。


 クレーフェ伯爵は初老にさしかかった紳士で、厳粛かつ思慮深い人物だった。伯爵は義父としてルカを大事にしてくれるつもりのようだったし、ナターリアの幼い妹も無邪気にルカを慕ってくれていた。


 入り婿の立場では、伯爵家において実権や発言権は持てなかっただろうが、理不尽に虐げられることもなかったはずだ。


 結婚して他家の人間になれば、もう家族から迫害されることもなくなる。それが待ち遠しかった。


 父からまるで存在しない者のように無視されることもない。継母から頻繁に怒鳴られ理不尽に打たれることもない。弟から遊び半分の嫌がらせを執拗に受けることもない。穏やかで安らかな日々を過ごせるのではないかと、期待していた。実家よりも静かで、平和な、ごく普通の人生を手に入れられるのではないかと願っていた


 だからナターリアがマティアスの虚言も見抜けず、彼の主張だけを鵜呑みにしたのには少なからず傷ついた。


 ルカと話し合いの場を設けることもなく、真偽を確認することもせず、ナターリアはルカを糾弾して一方的に婚約の破棄を告げた。


 一度は将来を誓った相手なのに、ナターリアはルカを信じてはくれなかった


 その時だった。

 揺れる馬車が、ひときわ大きく揺れた。


 荷台が斜めに傾き、雑居する人々も同じ方向に傾いて押し流される。


 潰されそうになる老人や子供を、ルカはとっさに体を張ってかばった。


「大丈夫ですか?」


 車体の揺れが止まってから、ルカは馬車を飛び降りる。


 前方にそびえたつ断崖が、斜面の途中から(へら)でえぐったように削り落とされ、大量の土砂が車道を埋めていた。


 行く手を遮られた馬たちは高くいななき、でこぼこの地面を踏みしめながら(ひづめ)を鳴らしていた。


「手伝います」

「ああ、助かるよ」


 轍が大きな溝になって、車輪の身動きを取れなくしている。


 ルカは馬の手綱を取っていた御者たちと一緒に車体を押し、道路に戻すのを手伝った。


「昨日の大雨で、土砂崩れが起きたみたいだ」

「参ったな……これ以上進めん……」


 御者たちが困りきった様子で、頭に手をやった。


 幸い馬や荷台に被害はなかったが、通れない以上は来た道を戻り、迂回するしかない。


「じゃあ、僕は歩いていきます。ここまでありがとうございました」


 馬車の料金はすでに前払いしていたが、ルカはさらに追加の金を手渡した。


 この先を歩いて進むのならば、もはや路銀はいらないだろう。荷を持ったまま引き返さなくてはならない彼らや馬車の所有者たちの方がよほど損をしてしまうはずだ。


 御者の男は少し驚き、丁重に礼を言ってくれた。


「ありがとうございます。お気をつけて」


 降り立った山道に吹く、風は清々しかった。


 狭い馬車の中で身を縮めてもやもや考えているよりも気が晴れるかもしれない、とルカは気持ちを切り替える。


(風が気持ちいい……)


 鋭く澄んだ空気の中を進むうちに、足取りも軽くなっていく。


 半日をかけて峠を越え、沢の流れる隧道をくぐり抜けた先で、一気に視界が開けた。


「わぁ……!」


 威風堂々とした山嶺が、天に向かって隆起している。頂上は美しい三角の形に尖って、純白の万年雪を冠していた。


 途切れることのない山肌が連綿と続いたかと思うと、目の前に突然、垂直に切り立った渓谷が現れる。森の中を流れる清水が注ぐ湖は、青い鏡のように透明な光をたたえていた。


 何もかもが壮観だったが、もっとも目を奪われたのはその森の中枢だった。


 黒衣の城が、空に浮かんでいる。


 山脈の尾根を伝うように、堅牢な石造りの壁塞が連なっている。壁塞は山肌の斜面を大きく取り込んで築かれているのだが、その要を押さえて頑健とそそり立つ黒い城閣は、あたかも天空に浮遊しているかのように見えた。


「すごい……!」


 ルカは素直に感動した。

 

 育ったヴァルテン男爵家は成金だけあって豪邸だったし、元婚約者のクレーフェ伯爵家も歴史ある壮麗な邸宅を有していた。


 それなのに。これまでに見たどんな華美な館よりも、目の前の質実剛健な黒の城に圧倒されてしまう。


 吸い寄せられるように、ルカは城を仰ぎながら進んだ。


 舗装された道路はない。いつの間にか道を反れてしまったのだろう。


 澄んだ川が蛇行しながら山中を流れ、対岸には深い緑の森が広がっていた。うっそうとした森の中に分け入ると、とたんに空も城もほとんど見えなくなる。


 風の通る音や木枝のこすれる音に混じって、低くうなるような声が聴こえた。

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