第8話 使用人たちとの別れ
貴族の城はメインとなる居館の中に当主やその家族の自室をそなえ、使用人たちの生活空間は居館から離れた別館に用意されていることが多い。
ヴァルテン家の屋敷は城ではなく邸宅だが、建物の構造は同じだった。
当主、夫人、そして次男の部屋は居館の中でもとりわけ日当たりのよい位置に複数設けられているが、長男の部屋は渡り廊下を下った先、別棟の一角にあった。
使用人たちが雑居するスペースの中でもひときわ低い天井と、漆喰がぽろぽろと剥げた壁。じめじめとした半地下にあるせいで昼でも薄暗いルカの部屋は、部屋というよりも物置か納戸に近い。
「……これで全部、か……」
わずかな衣服などを布地の鞄に詰めて、ルカは小さくささやいた。
荷造りはあっけないほどすぐに終わった。
富豪で鳴らしたヴァルテン家の邸内は、高価な調度品が山のようにある。
金にあかせて集めた贅沢な品々が掃いて捨てるほどあふれているのに、ルカの私物と呼べるものは鞄ひとつに収まるほど少なかった。
「えっと、ここには確か……」
古めかしいチェストの、立て付けの悪い抽斗を開けると、銀色の鋏が大事にしまわれていた。
普通の鋏よりも小さくて先端が細長く、持ち手の部分には繊細な花の模様が刻まれている。
貴族の女性が裁縫の際に用いる、刺繍用の糸切り鋏だ。
「……お祖母様の鋏……」
鋏は亡くなった先代の男爵夫人、ルカの祖母の遺品だった。
祖母はルカが男爵家に来た当初、突然できた孫にとまどっていたそうだ。
最初のうちは赤ん坊のルカの世話は使用人にまかせきりで、ろくに会おうともしなかったものの、ふと顔を合わせた時に、罪のない赤子のあどけなさに癒されたらしい。
幼かった頃のアウグストによく似た顔立ちに祖母は心なごみ、同じ屋敷で過ごすうちに少しずつ情も湧き、やがて祖母としてルカのことを可愛がってくれるようになったのだという。
ヘルミーネが嫁いできた時も、異母弟のマティアスが生まれた時も、ルカをかばってくれたのは祖母だった。
ルカを強引に男爵邸に連れてきたはずのアウグストよりも、よほど矢面に立ってヘルミーネに意見してくれたらしい。
「……」
祖母はルカが七つの時に、病を得て亡くなってしまった。
ヘルミーネはルカの祖母のことを煙たがり、姑というだけで毛嫌いしていたから、祖母が亡くなってすぐに遺品はあらかた処分され、服も宝飾品もことごとく売り払われてしまった。手元に残ったのは、この小さな鋏くらいだ。
ルカが小さな鋏をそっと、胸元のポケットにしまった時だった。
粗末な扉を、誰かが遠慮がちにノックする音がした。
「はい?」
ルカが扉を開けると、白いコックシャツ姿の男がうつむきながら立っていた。
「……ルカ様……」
「ヨハン!」
ヨハンはヴァルテン家に仕える料理人だ。
元は王都でも有名な高級店で総料理長を務めていたが、才能を買われて男爵家に引き抜かれたらしい。
もう十数年もヴァルテン家の厨房を預かり、主厨長さえ任されているヨハンは、すでに初老にさしかかってはいるが、腕と舌は今でも確かだった。
重たげに足を引きずりながら、ヨハンは震える手をにぎりしめ、悲しそうに頭を下げた。
「ルカ様……どうかお元気で……」
「ヨハン。ここに来て大丈夫なの?」
ヨハンの肩を支えて、ルカは心配そうに尋ねる。
ヴァルテン家に仕える使用人たちは、ルカに同情的な者が多かった。ヘルミーネの威を借りてルカにつらく当たる者もいないわけではなかったが、ヘルミーネの横暴さと、人を人とも思わない尊大さには、使用人たちも大概うんざりしていたのだ。
すぐにヒステリーを起こす扱いづらい女主人が、まだ幼い継子を虐めているのを見て、心が痛まないわけがない。
ヘルミーネが目を光らせている屋敷内で、表立ってルカをかばうことは難しいが、目の届かない裏方では、みんな微力ながらルカに優しくしてくれた。
主厨長のヨハンもその一人だ。貴族らしい習い事の一つもさせてもらえなかったルカに優しく接してくれ、食材の仕込みや下ごしらえの方法、火入れのコツなどをひとつひとつ教えてくれた。
ヨハンの妻もヴァルテン家で働くメイドだった。長年にわたって夫婦で仲良く勤めてくれていたのだが、その妻ももう他界して久しい。夫妻には子供がなく、ヨハンに扶養する家族はいなかった。
「私にはこれまでの蓄えもある。たとえ奥様に解雇されても、自分一人の食いぶちくらいは何とかなりますから……」
だから、とヨハンは許しを請うように、さらに深くルカに頭を下げた。
「他の者たちのことはお許しください……。養わなくてはならない家族がいる者は仕方ないのです……」
「うん。わかっているよ」
ルカはヨハンの少し瘦せた背をさすって、安心させるようにうなずいた。
ヨハンのように独り身でもなければ、ルカに別れを惜しみに来ることさえ難しい。
この家に長年住んでいるのだから、ヘルミーネに睨まれただけで職を失ってしまう使用人たちの立場の弱さも、ルカにもよくわかっている。
ヨハンはしわがれた声を潤ませた。
「大奥様もきっと……ルカ様の幸せを願っておられます……」
大奥様とは先代の男爵夫人ことだ。同じ屋敷に暮らしている家族の中で、ルカの幸せを願ってくれるのは亡くなった祖母だけなのだと、そのことが改めて心に沁みた。
ルカは両手をさしだして、水仕事であかぎれの絶えないヨハンの手を包んだ。
「元気でいてね。ヨハン」
ヨハンは声を殺して泣いた。
当主の長男が家を出ていくというのに、見送るのは老人ただ一人。
いや、一人ではなかった。
庭園に続く窓ごしから。少しだけ開いた扉の奥から。らせんを描いた階段の死角から。何人もの人影がちらちらとルカをうかがっているのを感じた。
従僕にメイド、馬丁に庭師に雑役夫、執事もいる。みな男爵邸で働く使用人たちだ。
誰もが複雑そうな表情の半分に怒りをたたえ、半分に無念さをにじませている。涙ぐむ目元を服の袖で拭っている者もいた。
「ありがとう、みんな」
ルカはまぶしそうに目を細め、家族に見咎められないようにそっと手を振った。




