第10話 一目惚れの瞬間
「……何の声だろう?」
ルカが耳を澄ませた瞬間だった。
「わっ!」
灰色の塊が空中を横切って、ルカはとっさに身をよじった。
「狼!?」
足音も立てずに目の前に着地したのは、灰褐色の毛並みにおおわれた野生の狼だった。
本で見たことはあるが、本物の生きた狼を目にするのは初めてだ。背の側は黒みが強いが、腹側は白い。
三角形の耳を尖らせ、先ほどから聞こえていた低いうなり声を響かせて、狼はじっとルカを見上げている。眼球は光を反射して鋭く、獰猛な色あいに染まっていた。
「……あ……」
無意識に後ずさった瞬間だった。
するどい歯と牙をひらめかせ、喉を開けて大きく吠えながら、狼はさらにルカめがけて突進してきた。
「うわっ!」
ルカが駆け出すと、狼も後を追ってきた。長い尾を上げたまま、狼は飛ぶような速さで疾走する。
ルカは必死に森の中を逃げた。追いにくいよう倒木をまたぎ、大樹の洞をくぐる。
斜めになった山肌をすべるように駆け、水の湧く沢を越えた先だった。地面が大きくぼんでえぐれていた。
「……待ち伏せ?」
ルカは愕然とした。ルカはがくぼみに入ったのを見届けたように、さらに数頭の狼が顔をもたげ、ゆったりと現れる。
「追い込まれてた……!?」
獲物を追い込み、あらかじめ仲間のいる方向に向かわせ、前方と背後から挟みうちにする。
狼は群れで狩りをすると本で読んだことがあったけれど、なんて連携が取れているのだろう。こんな時だというのに、賢さに感心してしまう。
「どうしたら……」
ルカの周囲を取り囲んだ狼たちが、じわじわと狙いを定めるようににじり寄ってくる。
狼の四肢は細長く、つま先で立つようにして歩いている。だから動いても駆けても足音がしなかったのか、とまたこんな時なのに納得する。
群れの中でも一番大きな一頭が、猛々しく吠えながら高く跳躍した。
「うわぁっ!」
ルカが思わず目をつぶった、その刹那だった。
「──動くな」
凛とした声が響いた。
声と同時に射かけられたのは、星のように翔ける一本の羽矢。
ルカの蜂蜜色の髪を揺らして奔り抜けた鏃が、間近に迫っていた狼の喉元に深く突き刺さった。
「……!」
ルカが閉じた瞳を開いて、振り返った瞬間。
周囲の音が、空気が、時間がすべて停止した。
目の前に降り立ったのは、しなやかな長身の女性。
凛々しい立ち姿。すっと伸びた背中。弽を嵌めた手のひら。構えた弓筋だけではなく、前を見つめる視線もどこまでもまっすぐだった。
長い黒髪をひるがえして、彼女は背にくくった矢筒に手を伸べた。
獣が牙を剥き出して目前に迫ってきているというのに、女性は身じろぎひとつしなかった。
動揺や恐怖を少しもにじませないまま、視線を一定に保って、冷静に照準を合わせる。まるで獣の動きを読んでいるかのように。
彼女は弓を持つ左腕を掲げたまま、右手で筒から矢を引き抜くと、弓に番え、一直線に引いた。
すべての動作が流れるように巧みで、一部の無駄もなく、一秒の隙もなかった。
二本目の矢も外れることなく、ルカに飛びかかろうとしていた狼の眉間に突き刺さる。
吸い寄せられたまま視線を放すことができずに、ルカはただ彼女を凝視した。
「……!」
まばたきをするのも惜しかった。
一秒でも、一瞬でも見逃したくなかった。
「大丈夫か?」
そう尋ねた女性は、森になじむ暗い色合いの上着を着ていた。
あえて片側の脇だけを縫製しない作りは、肩の可動域を増やして、弓を射やすくするための仕立てだろう。下半身も動きを妨げない、ぴったりとしたズボンをまとっていて、すらりとした足の長さがよくわかる。
スカ-トを穿いてない女性をルカはこれまでほとんど見たことがなかったが、余りにもよく似合っていて、見惚れることしかできなかった。
「怪我はないか?」
重ねて問いかけてくる声が、まるで天国から響く福音かのように聞こえる。
ルカを見る彼女の瞳は、あたかも天上の蒼穹を切り取ったような、澄んだ青色。
「……」
ルカは言葉を失った。
まるで雷に打たれたように、全身が痺れる。
微動だにできないほど痺れているのに、どうしても目を離すことができない。
ただごくシンプルな思いだけが、ルカの口からこぼれ出た。
「……好き……」
今まで自分はどんな女性が好みかなんて、考えたこともなかった。
縁あって婚約したナターリアのことは大切にしたいと思っていた。燃え上がるような恋ではなくても、貞実に向き合い、誠心誠意尽くそうと思っていた。
自分の好きなタイプを深くつきつめて考えたことも、ましてやその相手と結ばれたいなどということも、これまで願ったことすらなかった。
それなのに、今。
目の前にいる女性が、自分の好みそのものなのだとはっきりとわかる。
さらりと流れる黒檀の髪に、青く透き通った強い双眸。狩猟用の服が似合う勇ましい出で立ち。
ただ彼女がそこにいるだけで、山も森も湖も、世界の何もかもが美しい。
「あの……僕と……っ!」
ルカは一心不乱に駆け寄る。気がついた時にはもう、地面に片膝をついていた。
かつてナターリアに対して、同じように膝を折ったことがある。
すでに両家の間で婚約の話はまとまっていたものの、きちんとプロポーズしてくれなくては嫌だと強くねだられて、彼女の願いを叶えるために練習したのだ。
あの時は頭の中で復習しながら慎重に再現した所作が、今は何の苦もなく諳んじられる。
まるで体が自然に動くみたいに、口が勝手に動くみたいに、ひざまずいたルカは手をさしのべ、目の前の女性に求婚した。
「僕と結婚してください!」
しばし、時が止まった。
「は?」
何を言われたのかわからない、という顔で彼女はルカを見返す。
「てめぇ!」
彼女のかわりにいきり立ったのは、背後に控えていた大柄な男だった。同じく狩り用の装束と編み上げ式の靴を身につけている。
強面の顔を憤怒の表情に染めた大男は、大股でずかずかとルカに近づくと、にぎった拳を乱暴にふりまわした。
「このお方に近づくんじゃねぇ!」
「わっ!」
男の鉄拳をかわして、ルカは後方にすさった。
踏んだ草は先日の雨の名残りで濡れていた。ルカのすり減った粗末な靴の底が、ぬかるんだ泥で滑る。
「──っ!」
とっさのことに、声も出なかった。
ルカは呼吸を止めたまま、切り立った急斜面を逆落としに落ちていった。




