第11話 二人の子供
崖をすべり落ちた先は、うっそうとした藪の中だった。
「……いたた」
梢が茂っていたおかげで、擦り傷を少し作っただけで済んだ。
すりむいた手を叩いて土を払いながら、ルカは安堵とともにほっと一息をつく。
「とっさに受け身を取れてよかった……」
ルカは幼い頃からずっと、突然叩かれたり突き落とされたりするのに慣れていた。弟のマティアスはルカのことを、いくらでも手荒に扱ってもいい玩具か何かだと思っていたからだ。
殴る蹴るは日常茶飯事、ルカの数少ない私物もルカ本人も、いつでも好きに踏みにじって壊していいものとして見なされていた。
ルカをどんなに虐めても、理不尽な暴力をふるっても母のヘルミーネは決して怒らず、むしろマティアスを褒めた。──邪魔者をちゃんとわかっているのね。なんて賢いんでしょう、と。
咎められず、称賛されれば、人は増長する。マティアスはさらに面白半分で棒や剣を振りかざし、隙あらばルカに襲いかかってくるようになった。
まともに受ければ怪我をするし、ルカが反撃などしようものなら、ヘルミーネに告げ口されてもっと面倒なことになる。
だから逆らわず、なるべく反応せず、頭や腹を守って受け身を取るのが最善だと、ルカは自ずと学んだ。
目立った反応を見せずにいれば、マティアスもつまらなくなる。つまらなくなれば飽きてくる。飽きてくれればこっちのものだ。
そうやってルカはなんとか実家での日々を生き延びてきたのだが、まさかその技術がこんな辺境に来てまで役に立つとは思わなかった。
「……?」
藪は深くて木立は高く、ここがどこなのかもわからなかった。
道しるべになるようなものが見える位置まで移動しよう、とルカは土を払って歩き出した。
しかしわずかに進んだだけで、すぐにまた立ち止まったのは、どこからか風に乗せて、動物の鳴き声のような音が聞こえてきたからだ。
「また狼……!?」
思わず警戒するが、かすかに響いてくるのは高い音で、先ほどの狼が発していた低い唸り声とは違う。まるで人間のような声音だった。
藪をかきわけて、ルカは進んだ。声のする方角へと山を登っていき、ひときわ深い茂みを縫うようにしてくぐり抜けた先に、草原が広がっていた。
「え、子供……?」
草の上に座り込んでしくしくと泣いているのは、小さな女の子だった。
女の子は栗色の髪を三つ編みにして結い、肩に垂らしている。つぶらな瞳は泣き腫らして赤く染まっていて、足元には蔓を編んだ籠が置いてあった。籠の中には熟れた野いちごがたくさん詰まっている。
「どうしたの? 大丈夫?」
なるべく威圧感を与えないように、身を縮めてルカは尋ねた。こういう時は、元婚約者に嘲笑われた貧相な体型が役に立つ。
「迷子……なのかな?」
「……お、おにいちゃんが……」
女の子は泣きじゃくりながら、後方を指さした。
茂みの影に、女の子よりも二つか三つほど年上そうに見える男の子がうずくまっている。女の子とよく似た栗色の髪をしていて、兄妹だろうと一目でわかった。
「大丈夫?」
ルカが駆け寄ると、男の子は苦しそうに額をしかめながら、鳶色の瞳を開いた。
「足……足が……」
「足?」
見れば、半円形の金属板が二つ重なって、男の子の右足を挟みこんでいた。
革を縫い合わせて作った靴を履いているおかげで、皮膚に直接食い込んでいるわけではないが、鋸の歯のような金属の板は足首をきつく締めつけていて、靴を脱ぐこともできそうにない。
「これは……罠?」
金属製の罠だった。大きさからして、狐やイタチくらいのサイズの生き物を捕えるためのもののようだ。
動物用の罠なんて本でしか見たことがなかったけれど、それほど複雑な作りではなさそうだ。そう思ったルカに、男の子が栗色のかぶりを振った。
「だめなんだ。壊れてるんだ」
「壊れてる?」
「うん。ふつうの罠ならぼくでも解錠できるんだ。でも、これ……ぜんぜん開かなくて……」
金属板の中間には突起があるが、中は空洞になっている。本当ならこの場所につまんで動かす把手が付いており、回せば発条が緩むはずだ。
しかし、板を踏み抜いた時に衝撃で外れてしまったのか、把手はどこにも見当たらなかった。あたりを見渡しても、取れた金具のようなものは見つからない。
「何か細長い、金属のようなものがあれば……回せそうだな……」
突起の中の隙間は、小指すら入らないくらい細くて狭い。
何か、この中に差し込んで回せるような、薄くて細い棒状のものがあったなら──。
「そうだ!」
ルカは服の中に手を入れた。
上着の内側にはポケットが付いており、中には革の袋が入っている。
小さな袋をそっと開くと、精緻な模様の刻まれた銀の鋏が出てきた。
実家を出る時に持ってきた、祖母の形見の品だった。
「これなら……」
これなら届くかもしれない。裁縫用の小さな鋏の先端は、普通の鋏よりもずっと細くて長い。
「ちょっと待っててね」
思った通りだった。小指よりも細い鋏の先端は、狭い隙間にすっと入った。
「……固い……けど、もう少し……」
ありあわせの道具だから、金具とぴったり嚙み合うわけではない。あと少しで留め金が緩みそうなのに、なかなか回ってくれない。
ルカが思いきり力を込めた時だった。バキッと大きな音がして、鋏の刃は要部分から半分に折れ曲がる。
かわりに固く閉じていた金属板は、動物が口を開けるようにぱっくりと外れて、地面に転がった。
「よし!」
「あ、ありがとう……」
解放された男の子は安堵の表情を浮かべたが、すぐに申し訳なさそうに、折れた鋏をじっと見た。
「それ……すごく高価そうなのに、良かったの?」
男の子が尋ね、ルカは笑って首を振る。
「いいんだ。大丈夫」
祖母は優しい人だった。ルカが平民の血を引いていても孫として認め、静かな愛情を注いでくれた。
愛用していた鋏も、目の前の子供を救うために壊したのならきっと許してくれるはずだ。そう思った。
女の子が泣くのをやめて、おにいちゃん、と男の子に抱きつく。
壊れた鋏をもう一度大切に胸元にしまってから、ルカは自分の上着の袖を破り、細長く引き裂いた。粗末だから破りやすい。
「骨が折れていないといいんだけど……」
靴を履いていたとはいえ、相当痛かったはずだ。男の子の足首やかかとはうっ血して、紫色に変色している。ルカは裂いた布を傷口に当てて、丁寧に巻きつけた。
二人の子供に向かって手を伸ばし、笑いかける。
「道案内してくれる? 君たちの家まで帰ろう」




