第84話 ルカとエヴァルト
「エヴァルトさん、ただいま戻りました」
リートベルク城の人々と喜びの再会をかわし、長旅の荷ほどきを終えた後。
ルカは執務室に隣接した事務室を訪ねた。
「お帰りなさいませ、ルカ様。使用人一同、心よりお戻りをお待ちしておりました」
執事補佐のエヴァルトは丁重に頭を下げた。怜悧な眼鏡の奥には、疲労の色と安堵の光が同時に浮かんでいる。
「王宮のパーティーはいかがでしたか?」
「それはもう……アレクシア様が最高に! 最っ強に!! 完っっ璧に美しかったです!!!」
──ああルカ様だなぁ、変わりないなぁ、とエヴァルトは内心ほっこりする。
都会には華やかに着飾った令嬢たちが大勢いたことだろうに、ルカの目には相変わらずアレクシアしか見えていないらしい。揺るぎなくて何よりだ。
「ご実家の男爵家にはお帰りになったのですか?」
「はい。帰るつもりはなかったんですけど、いろいろあって寄ることに……」
ルカは王宮のパーティーを中座し、ヴァルテン家に赴いたことをエヴァルトに語った。
実家といっても安らげる場所ではないのだが、それでも久しぶりになつかしい使用人たちと再会できて嬉しかったこと。
男爵夫人はアレクシアを懐柔しようとしていたものの、アレクシアは思惑に乗ることなく、きっぱりと突っぱねたこと。
『──もうこの屋敷に来ることは、二度とないでしょう』
まるで覇王のような気迫をみなぎらせたアレクシアは、心臓が止まるほど魅力的だった。
男爵夫妻も完全に威圧されていたが、ルカも正直気絶するかと思った。危なかった。
『あなた方はもうルカに関わるな。ルカは私が幸せにする──』
「……お嬢様がそんなことを?」
あのアレクシアがヴァルテン男爵夫妻に向かって「ルカを幸せにする」と宣言した?
エヴァルトは眼鏡がずり落ちるほど目を見開きながら、もにょもにょと口ごもった。
「それはその……お嬢様本人も自覚がないのかもしれませんが、その……そういうことなのでは……?」
エヴァルトがずれた眼鏡を再びかけ直していると、ルカは感じ入った様子でささやいた。
「僕、とても感動したんです……」
「でしょうね」
「なんて責任感のある、部下思いの方なのかと」
「ん?」
「たった一年お仕えしただけの僕をかばってくださったことも、これからも雇っていただけると言ってくださったことも、本当に嬉しかったです!」
「雇うとは言っていないような……」
ルカは感動にうち震えていたが、エヴァルトは困惑した顔であさっての方向を仰いだ。
「エヴァルトさん?」
「……いえ。よく思い上がらずにいられるなと感心しました」
「えっ?」
ルカはアレクシアと一緒に公式のパーティーに参加した。想いを寄せる相手のパートナーとして、王宮の大広間でダンスを踊り、実家にまで同行した。すべて婚約者という肩書付きで、だ。
それなのにこの反応はなんだ──とエヴァルトは遠い目をする。
絶好のシチュエーションに、男として少しくらい浮かれてしまうのが普通ではないのか?
アレクシアの言葉に舞い上がり、脈があるのではと期待し、あわよくばと増長してしまうものではないのだろうか?
(……それほど、この方は貶められてきたのだろう……)
ルカはさぞかし長年にわたって、身の丈を知れと突き付けられ、身の程をわきまえろと叩き込まれてきたのだろう。
だから自惚れることはできない。調子に乗ることもできない。
アレクシアの勇姿に目を奪われこそすれ、自分が憎からず思われているかもしれないなどとは想像することもできないのだろう。
根が明るい気性をしているので、卑屈だとは感じないが、謙虚が過ぎるとは思ってしまう。
「そういえば……。エヴァルトさんやエッカルトさんは大変ではなかったですか?
「それはもう……この通りです」
エヴァルトは浅く息を吐いて、片付けても片付けても底の見えない書類の山を遠い目で見つめた。
アレクシアの不在もあって、このところ執事のエッカルトと執事補佐のエヴァルトはてんてこまいだったのだ。
「きっとそうだろうと思ったんです。すぐ取りかかりますね」
ルカはシャツの腕をまくって、エヴァルトがまだ手をつけられずにいた書類の束に目を通し始めた。
積まれた書類の内容は多岐にわたるが、エヴァルトが主に担っているのは使用人たちの雇用の手続きや待遇の調整、ならびに賃金の支払いに関する給与計算が多かった。
他にも建物の整備や補修といった業務、災害の対策、飢饉に備えての備蓄管理、予算の計上や収支の会計報告など、やることはいくらでもある。
二人はしばらくの間、溜まった書類をさばくのに集中した。適宜確認を取りながら、てきぱきと作業を進めていく。
「エヴァルトさん。この書類ですが、辺境伯に裁可をお願いする際にこちらの資料も添付してはどうでしょうか?」
「ええっと……ああ、確かにここは資料があった方がいいですね。それにこの部分、根拠となる数字は……」
「はい、これです。遡って探してみました。」
膨大な中から的確にピックアップされた書類を精査しながら、エヴァルトは感心したように言った。
「ルカ様は実務にお強いですね」
「そんな……エヴァルトさんほどではないです」
「いえ、たいしたものです。さすがは商家として鳴らしたヴァルテン家のご出身だけある」
ルカは判断も早いし、的確だし、事務仕事に向いている、とエヴァルトはしみじみと感服した。
ただ会計や財務の基礎が身についてるだけでなく、実際の業務にも慣れているとは前々から感じていたのだ。
ルカは実家のヴァルテン家では特に家庭教師がついたことはないと聞いたが──貴族の長男に家庭教師をつけないとは信じがたいことであるが──たしかに彼は貴族が教養として学ぶような神学や古典、歴史や楽器の演奏などの素養は乏しい。
しかし一方で、算術や法学、経営学の知識には人並み以上に優れている。
資料の作成を任せても、数字の集計を頼んでも、処理が速いだけでなくミスがなく正確なので、エヴァルトとしても快適だった。
「実家で学ばれたのですか?」
「はい。ヴァルテン家の管財人はみんなとても優秀なので、彼らから教わりました」
ヴァルテン男爵家は商人から成り上がった家である。男爵家の主な収入源となっているのは、叙爵前から所有する商会や多くの不動産だ。
といっても、ヴァルテン一族の人間が実際の経営に関わっていたのは先代当主、つまりルカの祖父までだった。
父のアウグストは事業の運営に興味がなく、はっきりいえば商才がない。
しかしアウグストがそれを自覚しているのは幸いでもある。
彼はむやみに経営に口を出すことなく、専門性の高い管財人たちを雇って実務を任せ、自身は名ばかりの元締めとして君臨している。
「僕の父は……見事に何もしていないんですけど……。でも有能な管財人たちががっちりと脇を固めてくれているおかげで助けられています」
アウグストは絵に描いたようなお飾り当主だ。
しかしアウグストにかわって管財人たちが男爵家のあり余る財産を守り、動かし、さらに増やしてくれている。
祖父の代できっちりとした資産運用のための組織を確立していたおかげで、当主は寝ていても収入が転がり込んでくる仕組みができあがっているのだ。
ヘルミーネがいくら派手に浪費し、マティアスが好き放題に散財しても、ヴァルテン家が傾かずにいられるのはこの仕組みのおかげだ。
(とはいえ……父上のためには本当にこれで良いのか、わからないけれど……)
当主が何も担わず、何の苦労もしなくていいシステムは、かえってアウグストの無気力を促進させているからだ。
怠惰でいることが許されるというか。やる気がなくても誰も困らないというか。暇を持て余しているからこそ、いくらでも陰気に殻にこもっていられるというか。
息子としては父の無気力さを心配しつつも、家が傾いて使用人たちが路頭に迷うよりはいいのだろう──と思うようにしている。




