第83話 ヘルミーネの不満
「ああ、可愛いマティアス」
パーティーから数日が経過し、ようやくマティアスの体調も快復したころ。
──本当のことを教えてちょうだい、とヘルミーネは息子に優しく声をかけた。
「あなたは悪くないのでしょう? あの生意気な辺境伯令嬢があなたを陥れたに決まっているわ。あなたがいくら高潔な紳士でも、あの野蛮令嬢や卑しいルカなんかをかばう必要はないのよ。どうか正直に言ってちょうだい」
「……母上。はい、そうなのです……」
マティアスは深くうなずき、当日の状況を話し始めた。
いささか支離滅裂で、要領を得ない説明ではあったが、根気よく時間をかけて聞いた話をまとめると、こうだ。
あの王宮のパーティーの日、マティアスは一年ぶりにルカを見かけた。
役立たずで実家を追放された不肖の異母兄とはいえ、マティアスにとってはたったひとりの兄だ。
ルカはリートベルク辺境伯令嬢をパートナーとしてエスコートしていた。ルカの婚約者ということは、マティアスにとっては未来の義姉だ。
辺境の地から来たばかりの令嬢には、権謀術数うずまく王宮は慣れず、不安なことも多いだろう。
だから何か手助けになれればと思い、マティアスは彼女に声をかけた。もちろん不埒な考えやよこしまな思惑などあるはずもない。純粋な親切心で、だ。
それなのに、リートベルクの令嬢は信じられないほど冷淡だった。マティアスの優しさを無碍にし、すげなく拒否し、著しく礼を欠く態度を取った。
さしずめマティアスが他の令息同様、下心ありきで言い寄っているとでも誤解したのだろう。とんだ勘違いだ。
勘違いといえば、兄のルカの方がさらにひどかった。
リートベルク嬢がマティアスと共にいるのを見て、醜い嫉妬を燃やしたのだ。
ルカは婚約者だったナターリアに手ひどく振られた過去がある。
ナターリアを魅了したマティアスに劣等感を抱いていたルカは、その時の敗北を思い出して激昂したのだろうか。突然、マティアスに殴りかかってきたのだ。
「平素なら兄上など私の相手ではありません。いとも簡単に倒せるはずなのです。だが卑劣にも不意を突かれたせいで、さすがの私も転倒してしまい……」
マティアスが俳優顔負けの熱演ぶりで、そこまでをぺらぺらと語った時。
ヘルミーネは椅子を蹴倒して立ち上がり、わなわなと身震いした。
「な、な、殴ったですって……!?」
怒りに我を忘れて、ヘルミーネは歯噛みする。
「あの卑しい庶子が、正統な跡継ぎであるあなたを殴ったというの!?」
「ええ、母上! そうなのです!」
まったく卑怯千万。低俗卑劣。騎士道の風上にも置けない暴挙だった。
卑しい血を引くルカには騎士道の心得などないのだろうが、通り魔のような突然の暴力に遭ったマティアスとしてはいい迷惑だ。
「無実のマティアスに手をあげるなんて! 絶対に許せないわ! 下賎な役立たずのくせに!」
これまでマティアスが数えきれないほどルカに手をあげてきた時は止めたことなど一度もなく、常に微笑ましく見守っていたヘルミーネは、初めてのルカからの逆襲に、怒髪天を突かんばかりにわなないた。
「あの血筋卑しい平民が! マティアスに暴力をふるったことは伏せて、白々しくこの家に乗り込んできていたなんて!」
思い返すだけでもはらわたが煮えくり返る。
辺境伯の令嬢も令嬢だ。
マティアスは慢心と勘違いが過ぎるだとか、このままでは大きな問題を起こしかねないだとか、ヘルミーネの過保護は息子を駄目にする一方だとか、とんでもない誹謗中傷を吐かれたことは忘れていない。
やはりあんな野蛮令嬢などを歓待などするのではなかった──とヘルミーネは激しく後悔した。
「真実を知った以上、もう黙ってなどいられないわ!」
ヘルミーネは夫のアウグストの元へ直行し、王宮での件は冤罪だ、暴行に及んだのはルカの方でマティアスは無実なのだ──と喧々諤々で訴えた。
しかしアウグストは聞き入れなかった。
「もう終わったことだ。忘れなさい」
アウグストは、これ以上ことを荒立てるな、と首を振るばかりで、妻の訴えをまともに取り合ってはくれなかった。
「でも、あなた! マティアスは何も悪くないのよ! あの子は嵌められただけなのに!」
ヘルミーネは納得できずに食い下がった。
今からでも王家に訴状を出して、あの生意気な辺境伯令嬢を裁きたい。
マティアスに暴行したルカを処罰してもらわなくては気が済まない。
「……やめなさい。リートベルクと事を構えるのは得策ではない」
アウグストは深くため息を吐いて、痛む頭を重たげに振った。
「先方は国内でもトップの軍事力を持つ家門。貴族でありながら国軍の指揮権も有する軍閥の家柄だ」
リートベルクは辺境伯の中でもとりわけ頭角を現し、侯爵と同等の地位とすると認められた名家。
ヴァルテン家のような歴史の浅い成金貴族とは違う、建国以前からの忠臣なのだ。
リートベルク家が辺境に封じられたのは左遷などではない。
国防の要である国境地帯を任されるということは、中央政府から絶大な信頼を置かれているあかしだ。
当代の辺境伯も不敗の猛将と呼ばれた豪傑で、有事の際は国王の許可を待たずに軍事行動を起こす権限さえも許されている。
だからいくら不服でもこれ以上話を大きくしてはならない、とアウグストは妻をなだめる。
そもそも王宮のパーティーで前後不覚になるほど泥酔している時点で、マティアスに非がないとは言いがたい──と。
「そんな! ひどいわ! 権力に屈して泣き寝入りしろというの?」
ヘルミーネはぎゃんぎゃんと騒いだが、アウグストは首を縦に振らなかった。
「あんまりです! マティアスはあなたの跡継ぎなのよ。あなたは我が子が可愛くないの?!」
どんなに訴えても聞き入れてはもらえず、執事にアウグストの体調が悪いのでと部屋からさえ閉め出されて、ヘルミーネは憤慨した。
事なかれ主義な夫の態度には腹が立つし、ルカにはもっと腹が立つ。
卑しい庶子の分際で、正統な後継者のマティアスに手をあげるなどいったい何様のつもりなのだ。
悶々としながらも、時は過ぎた。
ヘルミーネはいっそ夫の名前を使って独断で動こうかとすら考えたが、結果としては何も手を打つことはできなかった。
その理由は、王宮から届けられた書状にある。
書状の宛先はマティアスで、差出人はリュディガー第二王子。
受け取った瞬間から嫌な予感はしていたが、案の定だった。
マティアスの当面の謹慎を命じる内容だったのだ。
公にはしないと話していた通り、秘密裏の通達ではあった。
しかし──辺境伯令嬢に対して抜刀したことをまったくの不問で済ますわけにはいかない。謹慎期間を通して己のしたことを考え、よくよく反省するように──と、第二王子の直筆で苦言が記してあった。
「あの馬鹿王子! 親戚だからといって辺境伯令嬢の証言を鵜呑みにしているのね!」
しかし書状には、指示に従うなら良し、そうでなければ男爵令息がしたことを容赦なく公表する、と書いてある。
王子の従妹にあたる令嬢に狼藉を働いておいてこれしきの処遇で済ませることを破格の温情と思え──と念を押してあるのが、いっそうヘルミーネの逆鱗に触れた。
「王妃腹でもない第二王子のくせに! 王太子にもなれない分際で、身内の肩を持って威張るなんて憎たらしい!」
不満はあった。異論もあった。
しかし、マティアスの華麗なる経歴に疵をつけるわけにはいかない。
ヘルミーネは書状をにぎり潰さんばかりに怒りにわなないた。




