第82話 辺境への帰還
氷雪をまとった高峰が、白い雲を突き刺してそびえている。
青々とした牧草地の広がる高原には、天からしずくを振り撒いたかのように、数十もの青い湖が点在していた。
晴れわたる空の光は強く、切り立った峡谷の間に落ちる影は濃い。標高の高い山々と多くの湖とが織りなす大自然が、泰然自若としてそびえながら眼前にせまってくる。
王都と辺境をつなぐ道は、あいかわらず難所が多かった。
危険な場所から優先的に補修作業を進めているものの、工事の手は遅々として追いついていない。
今回の復路でも急峻な崖の落盤事故を受けて、馬車が立ち往生する場面があり、二人は車を降りて自らの足で山を越えた。
ルカとしては道中少しでも長くアレクシアとともに過ごせるので嬉しいが、仮にも高位貴族の令嬢である彼女を歩かせるのは心が痛んだ。いくら彼女が平気そうでも、だ。
(……きれいな空気……)
ルカが汗ばむ額をぬぐって深呼吸をすると、澄んだ空気が喉を通って喉に、肺に、全身に沁みていくのが感じられた。
川面に生えた柳がそよそよと揺れている。山肌に沿って、石を高く積んだ重厚な砦塁が連なっている。黒い甍で葺いた城の屋根が、遠景の中にも雄々しくきわだって見えた。
甍と同じ黒色の釉薬で塗り込められた城壁が、徐々に大きさを増しながら迫ってくる。
(帰ってきたんだ……!)
茂る木々の間に、見張り楼の尖塔が付き出していた。
それだけで、長旅の疲れも吹き飛ぶほどの安堵と喜びが、ルカの胸を湧き上がった。
わずかにひと月弱、離れていただけのリートベルクは、今やなつかしくてたまらない大切な場所になっていた。
「「お嬢さま!」」
声をそろえてアレクシアを呼んだのは、二人の子供だった。
エミールとリリーの兄妹が、そっくりの茶色の髪の毛を山岳から吹き抜ける風に揺らしながら、大きく両手を振っている。
「「ルカおにいちゃん!」」
我先にと子供たちは走り出したが、一番速かったのは山猫のバルーだった。
バルーは四本の足で俊敏に駆け抜け、人間たちを一気に追い越すと、アレクシアの腕の中にまっしぐらに飛び込んだ。
「ただいま、バルー」
アレクシアに撫でられて、バルーは甘えた鳴き声をあげながら、喉をごろごろと鳴らす。
続いて子供たちが、頬を紅潮させながら斜面を駆け降りてきた。
「ルカおにいちゃん!」
「おかえりなさい! あいたかった!」
ルカはエミールとリリーを片腕に一人ずつ抱き上げた。二人に両側からぎゅうぎゅう抱きつかれ、両頬に同時にキスされて、思いっきり破顔する。
子供たちの母のマリーが、ほっとした様子で言った。
「お帰りなさいませ。お二人がいらっしゃらないと、まるでお城の灯が消えたようでしたわ」
「ええ、本当に寂しゅうございました。無事のお帰りで何よりですわ」
ブリギッタも安堵したように目を細めている。しかし次の瞬間、しわの刻まれた目頭は吊り上がり、眼光はぎょろりと険しく尖った。
「当然ながら、不埒な真似をしてはおりませんわね? 信じておりますからね、ルカ様」
「も、もちろんです……」
圧をかけられて、ルカは首を縦に振った。
アレクシアの手を取ってダンスを踊ったり、手を取って男爵邸に降り立ったり、手を取って昔のルカの部屋に案内したりはしたが、いずれも手を取るしかしていない。
もちろんそれだけでも無上の幸せなのだが、不埒や破廉恥と名がつくほどの行為ではないはずだ。
「あ、ハンスさん!」
主厨長のハンスが、他の料理人たちと連れ立って表に出てきたのを見つけて、ルカはにこにこと手を振った。
「ハンスさんやみんなへお土産を買ってきたんだ。流行のレシピをまとめた本に、王都でも入荷したばかりの新しい調味料と香草とスパイス、それに最新の調理器具と食器と……」
「わ、わ、おお……すごいですね……!」
ハンスは肉付きのいい丸い顔を、人のいい笑みでいっぱいにした。
この山のような土産物の大盤振る舞い、誰かに似ているなぁ──などと思いながら、最近さらに脂肪の増えたふくよかな体形を揺らして、ハンスはぺこりと頭を下げる。
「こんなにたくさん……ありがとうございます。使いこなせるかどうか心配ですが、腕が鳴ります!」
「ハンスさんなら大丈夫だよ。僕ももちろん手伝うから!」
ルカがにこやかに応じると、左右からエミールとリリーがぼくもわたしもと声と手を挙げる。
にぎやかな笑い声に包まれて、ルカは心の底からほっとした。
生まれ育った王都の実家よりも、このリートベルクの城の方がとっくにルカにとって故郷なのだと、改めてそう実感した。
「おお、戻ったか」
城の北側、練武場の方角から、巨大な足がざっと砂を踏みしめた。
大柄な影がゆらりと揺らめいて、アレクシアとルカを見下ろす。
「お父様」
「辺境伯!」
わずかに額に汗をかいただけの辺境伯ヴィクトルが、息も絶え絶えの騎士団長ニコラウスと並んで、丘陵を降りてきたところだった。
ヴィクトルはけろっとしているが、ニコラウスはふらふらとよろめきながら、剣を杖がわりにして辛うじて立っている状態だ。
ヴィクトルの肩には、力尽きて屍のようになったユリウスとクラウスとマリウスがぐったりと弛緩しながら、三人まとめて担がれていた。
「お父様、相談があるのですが」
マリウスを受け取って軽々と肩に担ぎながら、アレクシアが父に話しかける。
まずはのびている騎士たちをまとめて休憩所へと運んだ後。父娘は私室へと引き上げていった。
***
「許せないわ!」
火山の噴火のようなヘルミーネの怒号が、ヴァルテン家に響き渡る。
使用人たちはねずみが天災を察知するかのごとく、男爵夫人の怒りを予測して早々に立ち去っていた。
「おかしいと思っていたのよ! やっぱりそうだったのね!」
何度目かもわからない繰り言を叫びながら、ヘルミーネは悔しそうに爪を噛んだ。
「やっぱり私のマティアスは悪くなかったのよ! 私には最初からわかっていたわ!」
憤怒の原因は、溺愛する息子のマティアスから聞き出した話にあった。
マティアスは王宮で開かれたパーティーの席上で、王家所有の剣を無断で持ち出し、リートベルク辺境伯令嬢に対して向けるという不祥事を起こした。
マティアスは礼服をワインで染めるほどに泥酔しており、善悪の判断ができない状態だったと思われる。
それならば酒のせいであり、マティアスに責任能力はなかったのだとヘルミーネとしては主張したいが、運の悪いことに、事件の現場を目撃していたのは第二王子リュディガーだったのだ。
上位貴族が相手なだけでも分が悪いのに、よりによって王子が目撃者。
とにかくその場を早急に収めるしかなく、ヘルミーネはとっさにリートベルク辺境伯令嬢を自邸に招待した。
ルカは呼んでいないが、拒否できるような雰囲気ではなかったのが悔やまれる。
客人を招いてこの屋敷に帰った時点で、マティアスは話ができるような状態ではなかった。
よほど酒が深く回っていただのだろう。かわいそうに、腰が抜けて歩くこともままならず、時折ぶつぶつと「……あの女……」「嘘だ……こんな……」などとうわごとをつぶやくものの、まともな会話にはならなかった。
ひとまずマティアスの介抱は使用人に任せて、ヘルミーネは客の対応に専念した。
そうすることがマティアスを守り、あの子の罪を軽くするはずだと判断したのだ。
しかし、間違いだった。
もっと早く、息子の言い分を聞いてやるべきだった、とヘルミーネは悔やむ。
誰よりも優れたマティアスが、愚かな事件など起こすはずがなかったのだから。




