第79話 心が痛い
ルカは本に埋もれたまま、ふと顔を上げた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。天井にはめ込まれた大きな玻璃を透かして、落日がしっとりとした茜色を投げ落としている。
ルカが視線を階下に投げたのは、かすかな話し声と足音がこちらへと向かってくるのを感じたからだった。
柵ごしに一階を見下ろせば、すっと背筋の伸びた長身と、長い黒色の髪。
「アレク……あ……」
思わず身を乗り出そうとして、ルカは思いとどまった。
アレクシアは一人ではなかった。もう一人、別の人間が一緒にいた。
遠目にもよく目立つ秀麗な容貌をした、白皙の美青年──リュディガー第二王子だ。
二人の背の高さはほとんど同じ。リュディガーは鈍銀の色を帯びたブロンドで、アレクシアは漆黒の髪色をしているが、顔の造作はよく似通っている。二人とも母親似なのだろう。
兄妹と言っても通りそうな二人は、どちらを見ても惚れ惚れするような美男美女だった。
「尊い……!」
絵になる二人をうっとりと眺めながら、ルカは神に感謝の祈りを捧げた。
『──仮に私たちの血がもっと離れていたとして』
先日のパーティーの席で、リュディガーが言っていた言葉が脳裏をよみがえってくる。
『アレクシアが妃候補に選ばれたならば、私はやぶさかではなかった──』
アレクシアはリュディガーの発言を冗談だと一蹴していたけれど、あながちそうとも言えないのではないだろうか。
リュディガーの兄である第一王子は昨年、アーレンブルク公爵家の令嬢と結婚した。
リュディガーは王妃の子ではないとはいえ、れっきとしたこの国の第二王子。兄同様、名家の令嬢と添っていてもおかしくはないのに、結婚はおろか婚約の話さえ進んでいるきざしはない。
過去にいくつか名前の挙がった王子妃候補の令嬢たちは、話が自然と立ち消えるとともに、いつの間にか他家の令息の元に嫁していた。
現国王の血を引く人間はたった二人。第一王子と第二王子だけだ。
第一王子エドガーは国王と王妃の子。王妃の実家は筆頭公爵であるノルデンブルク公爵家。
第二王子リュディガーは国王と寵妃であるエリーゼ妃の子。エリーゼ妃の実家はオステンブルク公爵家。ノルデンブルク公爵家に比肩する名家である。
エドガー王子はリュディガー王子より四歳上であり、年長かつ王妃の子であるという理由から、順当に王太子の座に収まった。
しかし子供の頃ならばいざ知らず、二人の王子がともに成人を迎えた今となっては、年齢はもはや大きな差ではない。
まことしやかにささやかれる、根強い噂があった。──国王は後継者を選びかねている、と。
年齢も後ろ盾もほぼ等しい息子たちを前に、父王は心中では逡巡しているのだ──と。
国王は政治的な伴侶としては王妃を尊重しているが、一人の男としてはエリーゼ妃を寵愛している。
いくら第一王子エドガーが王太子たる条件を満たしていたとしても、愛する女性との間に授かった第二王子リュディガーに王冠を継がせたいと父王が望むのは、心情的にはあり得ることだ。
二つの公爵家と、二人の王子。
それぞれの実家を背負った王子たちの後継者争いは、混迷の様相を呈しつつある。
どちらを指名しても有力な公爵家からの反発を招くのは必至である上、それぞれの公爵家に与している派閥の力関係も無視できない。
今後の出方によっては、王太子の称号がすげ替えられることもないとは言い切れない。
王子たちに一つでも瑕疵があれば、形勢はたやすく逆転する。
それはつまり、リュディガーが異母兄エドガーを退け、次期国王の座に収まる可能性も充分にある──ということだ。
(……次期……国王)
余りにも雲の上の話で、頭がくらくらする。
ルカのような末端中の末端貴族とはかけ離れた貴人なのだと、あらためて認識しながら、ルカはもう一度リュディガーを見つめた。
冴え冴えとした美しい容姿をしたリュディガーと、彼に似た美貌を持つアレクシアの並びは、しっくりとよく合っているのに、なぜか胸が苦しかった。
間違いなく目の保養なのに……心が痛い。
***
リュディガー・フランツ・ペルレブルクは、膨大な蔵書の海を見上げた。
いつ来ても身が引き締まるような厳粛な場所だ。
「ここも久しぶりに来たな……」
オステンブルク公爵家から出立した馬車は、エリーゼやリュディガーが暮らす後宮に着くよりも先に、アレクシアの目的地である大図書館で歩を止めた。
──エスコートしてきなさい、とエリーゼに命じられてリュディガーは馬車を降りたが、母に言われずとも、元々付き添う気でいた。
アレクシアとは違い、事前に入館の許可を取ってはいなかったが、リュディガーの顔を知る司書たちはぺこぺこと拝むようにして丁重に通してくれた。
王子などという大仰な身分は面倒なことも多いが、こういう時は話が早くてありがたい。
「久しぶりと言えば、あんなに上機嫌な母上も久しぶりに見たよ」
オステンブルク公爵家でのお茶会の席でも。たった今揺られてきたばかりの馬車の中でも。今日一日を通してエリーゼはいつになく機嫌が良かった。
久しぶりの実家への里帰りだから、というだけではない。エリーゼにとってアレクシアは最愛の妹ルイーゼの俤を宿した、かけがえのない姪なのである。
「エリーゼ伯母様にはいつも慈しんでいただき、感謝している」
「母上は君を可愛がるのが生き甲斐なんだろうな。ルイーゼ叔母上の分までね」
エリーゼは二歳年下のルイーゼとそれは仲の良い姉妹だったという。ルイーゼが生まれつき病弱だったこともあり、しっかり者の姉はずっと過保護に妹を守ってきたらしい。
アレクシアはルイーゼの忘れ形見。当然ながらエリーゼはアレクシアにも優しい。母上は君に甘い──とリュディガーが渋面を作るほどだ。
「私には厳しいのに、君には甘すぎる……」
「リュディガーのことを思うからこそだ」
エリーゼは姪のアレクシアには甘い一方、息子のリュディガーには手厳しい。
リュディガーは現国王の息子で、この国の王子。王族の自覚を持ち、自らの行動を律しなさい──と子供の頃から、母にびしばしと躾けられてきたのだ。
母の教育方針も理解しているが、年齢の変わらないアレクシアを猫可愛がりしているのに、自分にばかり厳しく接する母のことが、リュディガーは昔から不満だった。
──そういえば、とリュディガーは思い出したように、アレクシアの顔をのぞきこんだ。
「先日のパーティーでは、君をダンスに誘いそびれたな」
アレクシアは苦笑して、首を横に振った。
「いや、やめておこう。私は下手なんだ」
「下手なのは知っているが」
「洒落にならないくらい下手なんだ。私が踊ったら多分、相手の足を折ってしまう」
「ルカ・ヴァルテンとは踊っていたのに?」
リュディガーは少しむっとした様子で、整った口元を拗ねたように尖らせた。
「ルカほど丁寧にリードした上で、かつ私の動きに完璧に合わせてくれる者は他にいない。別の男とはもうパートナーは組める気がしない」
(なんだ惚気か……)
リュディガーは口に出さずに思う。
といっても、アレクシア本人に惚気の自覚はないのだろうが。
他の男とパートナーは組めないとまで思っていながら、この従妹は自分の気持ちをつかみかねているらしい。
確かにルカ・ヴァルテンは地位が劣る。男爵家の私生児と辺境伯家の令嬢とでは身分が釣り合わないだろう。
だがルカの方はすっかりアレクシアに惚れ込んでいるようだし、アレクシアの方もまんざらではない──ように見える。多分。恐らく。なんとなく。
ではなぜそれ以上先の関係に進展しないかと言えば、要するにどうしたらいいかわからないからだろう。
アレクシアは腕力ならそこらの男が束になっても歯が立たないほど強いが、こと恋愛沙汰となると致命的なほど鈍い。
そもそもこの国の価値観では、女の方から告白するという発想はないのだ。
求愛にしても求婚にしても、主体的に動くのは男であり、女は受け身でいなくてはならないとされている。
そしてルカ・ヴァルテンがアレクシアに恋焦がれつつも、能動的に動くかといえば難しい。
立ちはだかる身分の差という壁を前に、彼は身を引く以外の選択肢を持ちえないだろう。
アレクシアに想いを告げることはできても、それ以上は望めない。望むことは許されない。
そして男が自制する以上、女から迫るのは難しい。
経験豊富で奔放な性格の女なら突破できるのかもしれないが、アレクシアには荷が重いだろう──とリュディガーは分析する。




