第74話 大図書館
座馭式の馬車が、あざやかな新緑に満たされた庭園を進んでいく。
(……)
馬車に揺られながら、ルカは苦悶していた。
革張りのソファはゆったりとしていて、非常に乗り心地がいい。蔦の彫刻が彫り込まれた車輪はなめらかに回り、振動も少なく、きしむことすらほとんどない。
一年前、実家を追い出された時に使った乗り合い馬車とは比べものにならないほど快適だった。
クラシックなデザインをした車体は、ヴァルテン家の所有する馬車ではない。リートベルク家のタウンハウスから出立した馬車だった。
(夢……だったのかな……?)
思い起こせば、目が回るほど忙しい一日だった。
アレクシアのパートナーとして王宮のパーティーに参列し、無事にダンスを踊った。元婚約者のナターリアや弟のマティアスと再び顔を合わせ、なぜか騒動に発展した。なりゆきでヴァルテン男爵邸に招かれ、父や継母と気まずい晩餐を囲んだ後は、なつかしい使用人たちとも再会することができた。
そこでアレクシアが言った言葉が、あれから何度も何度もルカの脳裏をよみがえり、回り、ぐるぐると駆けめぐっていた。
『あなた方はもうルカに関わるな。ルカは私が幸せにする』
男爵夫妻に向かって宣言したアレクシアは、卒倒するほど格好よかった。
全身が痺れて動けなかったし、当然ながら呼吸も停止した。今生きているのは奇跡といっていい。
(「私が」……!? 「幸せにする」……!?!?)
まるで壊れた自鳴琴みたいに、何度も同じフレーズを再生してしまう。
落ち着け、冷静になれと自分に言い聞かせて、ルカは焼き切れそうな脳に活を入れた。
(違う! 違うから! 幸せにするっていうのは、雇用主として、ってことだから!)
「幸せにする」という言葉だけを切り取れば、まるで結婚の誓いかのようにも聞こえるが、そんなことがあるはずない。
あくまでも主従関係として、リートベルクの後継者たるアレクシアが、保護したルカを自領で責任をもって雇用すると言っているに過ぎないだろう。
他意はないとわかっているのに、勘違いしそうになる自分が恥ずかしい。
好きな人の言葉ひとつひとつに、浮かれてしまいそうになる自分を戒めたい。
ルカは沸騰しそうな頬を両手で挟んで、ばしばしと強く叩いた。
「何をしている?」
「い、いえ……」
向かいの座席で不思議そうに首をかしげるアレクシアは、いつもの涼しくて綺麗な顔立ちのままだ。
特別ルカを意識している様子はないし、ましてや甘い雰囲気などは皆無だった。
これだけ平然としているのだから、やはりあの「幸せにする」に深い意味などないのだ。
「ほら、ルカ。まもなく到着するぞ」
言われて窓の外を見れば、いつの間にか馬車は庭園の奥深くへと入り込んでいた。
左右対称に刈り込まれ、整えられた緑の園の先に、琥珀色の館が建っている。
高く伸びた尖塔には国旗が掲揚され、そのすぐ下には大時計を備えた中央塔がある。館の前にはものものしい柵がめぐらされ、閉ざされた門扉を二人の門番が守っていた。
馬車が門前に付けると、馭者が扉を開けた。
ルカが先に降りて手をさし出すと、アレクシアは軽く笑んで手を取ってくれた。
門番に身元を告げ、入り口に控えた職員たちともいくつかの問答をかわして、ようやく館の中に入ることを許される。
少し待って、現れたのはゆったりとした長い法衣を着た司書だった。
本を抱いた手を祈りの形に組んで、司書はうやうやしくアレクシアに礼を取った。
「リートベルク辺境伯令嬢ですね。お待ちしておりました、どうぞお入りください」
建物の内部は三階までの吹き抜けになっていた。
高く伸びた列柱が、横たわる太い梁を支えている。
天井には六角形に切り出された透明な玻璃がはめ込まれ、さしこむ自然光が館内に放射線状に広がる設計になっていた。
ここは王家主催のパーティーと並んでもう一つ、二人の王都滞在の目的である場所であった。
王家が所有する、国営の大図書館。国内でも最多の所蔵数を誇る広大な書庫──別名「叡智の聖堂」
「すごい……!」
「ああ、これはすごいな」
磨かれた大理石の床に、おびたただしい数の本が写り込む。
写本に古文書。学術書に専門書。過去に国内で行われた裁判の記録。
膨大な蔵書が分野ごとに整然と区分けされ、見上げるほど高い本棚にぎっしりと詰まっている。
壁という壁は数えきれないほどの本で埋めつくされていたが、天井が高いため、閉塞感はない。
木製の書架はどれも長い年月を経て飴色に変色しているが、古めかしさよりも歴史や伝統をうかがわせた。
先人たちの知恵と、知識と、たゆまぬ研鑽の成果が積み重なった貴重な本の海は、まさしく「叡智の殿堂」の名に恥じない荘厳なものだった。
──美しいな、とささやいたアレクシアに、ルカも大きくうなずいた。
「いくらでもいられそうです……」
「私もそう思った」
各階に本を閲覧するための机が置かれているが、司書が二人を案内したのは二階だった。
二階の奥は半個室のような作りになったスペースがいくつか並んでおり、案内された机にはあらかじめ話をしていた通りの論文と研究書とがすでに用意されていた。
このペルレス王国、隣国のテュルキス王国、同じく隣国のグルナート王国。友好国を含む三か国で、正式に発表された最新の論文を優先的に取り寄せてもらったのだ。
司書に礼を言い、アレクシアはさっそく積み上げられた本の一冊を手に取った。
じっくりと目を通しながら、感心したように言う。
「なるほど。グルナートでは品種改良の技術が進んでいるな……」
農業大国として知られるグルナート王国は、作物の改良にも力を入れている。
今年発表されたばかりの新しい研究報告書には、従来よりもさらに耐病性や耐虫性、耐寒性に優れた最新の品種が並んでいた。
「素晴らしい。ぜひ我が領でも取り入れたいな」
グルナートが国をあげて開発した新種はどれも魅力的だが、もちろんリートベルクの領地における栽培適正もよくよく考慮しなければならない。
リートベルクの厳しい気候にも耐えられるような冷害に強い品種でなければ、せっかく輸入しても根付くことはできないだろう。
「林檎やベリー類を中心に購入するのがいいのではないでしょうか? ほら、こちらなどはリートベルクの主要な特産品と相性が良いかと思います」
「そうだな。確かに……」
ルカが指し示し、アレクシアもうなずく。
冬の寒さに強い果実といえば、林檎やさまざまなベリー類が代表的で、リートベルクでもすでに盛んに栽培されている。
林檎は複数の品種を同時に植えると実の生り方が良くなるのだが、品種間の相性も非常に重要で、相性が悪ければ受粉してくれないのだ。
「この新しい農耕具も革新的ですね」
「ああ。これはすごい発明だな」
グルナート王国では作物そのものだけでなく、耕耘のための道具類の開発も進んでいた。
鎌、鋤、鍬といった農耕具に、圧搾機、脱穀機、製粉機、撹拌機といった機械類。
どれも旧来のものよりも軽量な上に丈夫で壊れにくいという、画期的な改良が施されている。
「これならかなり農作業の負担を減らせるはずだ。ぜひ導入したいと、お父様に進言しよう」
あいにくと、気になるものすべてを領地全土に行きわたるほど購入するには予算が足りない。
何を重視するべきか。何から優先するべきか。これは城に戻ってから、父のヴィクトルや執事のエッカルトたちとの議論が白熱しそうだ。
「見ろ、ルカ。これも凄いぞ。採掘現場で取り入れられているという新規の弾薬だ。威力が段違いらしい」
「グルナート王国は炭鉱も有名ですからね。取り扱いには慎重を期しますが、もしもリートベルクにある鉱山にも使用できれば、採掘作業は一気に進むのではないでしょうか」
「ああ。しかし……これはさすがに危険か……」
アレクシアは楽しそうだった。財源や危険性の問題に頭を抱えながらも瞳は輝いていて、王宮での絢爛豪華なパーティーの時よりもずっと生き生きとしている。
(はぁぁ……寿命が延びるよぉぉ……)
好きな人の笑顔や明るい声音は、万病に効くものだ。
アレクシアとこうして過ごしてるだけで、全身が癒されて、体力気力がぐんぐん回復していくのを感じる。多分今ならどんな怪我をしても治る。
ルカはきゅんきゅん高鳴る胸の鼓動を必死に隠しながら、負けじと関連書を広げて読み込んだ。




