第73話 宣言
不機嫌そうにこめかみをひくつかせながら、ヘルミーネは作り笑顔を浮かべた。
「……そうでしたのね。我が家の歓待の気持ちが伝わったのであれば嬉しいですわ。明日はさらに贅を凝らした朝食を用意させます。楽しみになさってくださいな」
──なるほど、とアレクシアは推察した。
(贅を尽くせ、と使用人たちに命じにここまで来たのか。家令や執事を介さず、わざわざ自分たちで足を運んで直接発破をかけにくるとは……男爵夫人も相当に焦っているようだ……)
「ですからその後、どうかマティアスともう一度会ってはいただけませんか? あの子も充分に反省しているはずです」
「いいえ結構。朝食も不要です。明日は先約がありますので、早朝に出立します」
「そんなことをおっしゃらないで! あなたもマティアスと話せばわかりますから!」
「何がわかるのですか? ご子息とお話することなど、私には何もありませんが」
「もう一度マティアスに会えば、辺境伯令嬢もきっとあの子が並外れて優れた貴公子だということがよくわかります。クレーフェ伯爵令嬢だってそうだったのですもの。あなたもきっとルカよりもマティアスの方を気に入って、婚約だって乗り換える気にな……」
「ヘルミーネ!」
アウグストが思わず声を荒げて、ルカは耳を疑った。
父が継母を叱るなど初めて聞いた。
これまではヘルミーネが誰にどんな無礼な言動をしても、父は疲れた顔をさらに曇らせるだけで、制止したことなど一度もなかったのに。
「あなた! なぜ止めるの!?」
初めて夫に叱咤された事実は、ヘルミーネの気分を大いに害したらしい。怒り心頭でアウグストに食ってかかる。
「だっておかしいじゃない! クレーフェ家は伯爵なのよ! ルカの婚約者がマティアスの婚約者よりも格上だなんて、そんなことがあっていいはずがないわ!」
正直すぎる本音が炸裂した。
ヘルミーネが何よりも許せないのは、クレーフェ家よりもリートベルク家の方が上位であることなのだ。
ルカがマティアスよりも勝るなんてありえない。絶対にあってはならない──それが彼女の中での常識だった。
爵位の差だけではない。現在のクレーフェ伯爵家は事業の不振にあえいでいる。
ヴァルテン家の支援を受ければ経営は持ち直すだろうが、そうでなければ伯爵は資金繰りに追われて難渋することだろう。
表立っては言えないが、今のクレーフェ家は落ち目といっていい斜陽の貴族だ。
婚約した時は気にしていなかったが、今となっては伯爵の地位すら色あせて思える。
才色兼備なマティアスの相手として、クレーフェ伯爵令嬢などでは物足りない。もっと上流階級の娘がふさわしい──。そう信じきって、ヘルミーネは息巻いた。
「愛する我が子のためにより良い縁談を望むのは、親として当たり前のことでしょう? マティアスをちゃんと知ればリートベルク嬢だって愛さずにはいられないのだから、何の不都合もないわ!」
アウグストは眉間を押さえて、疲れたように黙り込む。
夫に背を向けて、ヘルミーネは再びアレクシアに詰め寄った。
「わかっていただけますわね? 私は両家のためを思って、もっといい組み合わせを提案しているだけ! 汚らわしい平民の血を引く私生児などではなく、清く正しい御曹司の方がずっと……」
アレクシアは最後まで言わせずに、深々とため息をついて、ヘルミーネの言葉をさえぎった。
「なるほど。あなたのご子息がルカとまったく違うのは、あなたがそう育てたからなのですね」
「え? なんですって!?」
マティアスはヘルミーネの自慢の一人息子だ。容姿にも頭脳にも秀で、付けた家庭教師からも招いた騎士からも常に絶賛されてきた。
中には苦言めいたことを呈してきた不心得者の教師もいたが、そんな見る目のない人間は指導者にふさわしくない。
不適合者は即座にお払い箱にし、真に優れた教師だけを息子のそばに置いて、最高の教育を授けてきた──。
そう反論しようとするヘルミーネを鋭い青の瞳で制して、アレクシアは毅然と言った。
「男爵夫人。なぜそこまで過保護になさるのですか? あのご子息を甘やかしていては、さらに駄目にする一方です」
(おおっ!)
ヴァルテン家の使用人たちの間に、漣のようなざわめきが広がった。
──まったく奥様は過保護すぎる。
──マティアス様をあんなに甘やかしていたら、いったいどうなることやら。
──今でも困ったお坊ちゃまだけれど、さらに取り返しのつかないことになるんじゃないのかねぇ。
常日ごろから使用人みんなが内心思い、憂い、ひそひそと話し合っていたことを、こんなにもはっきりと言葉にして伝えてくれる人物は初めてだった。
周囲が目を見合わせて感動している中で、ヘルミーネ一人だけが愕然としていた。
「さ、さらに……?」
──さらに駄目に、とはどういうことだ。
まるでもうすでに駄目であるかのような物言いではないか──とヘルミーネは不快感をあらわにする。
それは……マティアスは辺境伯令嬢に対して、ほんの少しだけ無礼をはたらいたのかもしれないが、若者が多少のはめを外すのはよくあることだ。そもそも宴の場など無礼講なものではないか。
こうして自邸に招き、財を惜しまず歓待しているのだし、もう禊は済んだはずだ。身分を振りかざして過去の失態を追及するような真似は下品だろう。
前途ある青年の一度や二度のあやまちなど、広い心で不問に処すべきではないのか──。
ヘルミーネが自分勝手な理屈をこねているのを見透かしたように、アレクシアは冷然と言い放った。
「はっきり申し上げますが、夫人のご子息は慢心と勘違いが過ぎます。このまま放っておけば大きな問題を起こしかねない、とご忠告しておきましょう」
(おおお!)
アレクシアの言葉に、使用人たちが再び沸き立った。
声には出せないが、全員が無言のまま瞳を輝かせ、食い入るようにアレクシアに注目している。
ヘルミーネだけが唖然と目を見開いていた。信じられない発言を聞いたといった形相で、わなわなと両肩を震わせている。
「なっ……なんて無礼な……!」
「お招きありがとうございます、男爵夫人。ルカがこの家でどんな扱いを受けていたか、よくわかりました」
(おおおお!!)
使用人たちは打とうとした膝をすれすれで止め、叩こうとした両手をぎりぎりで抑えて、前のめりで聞き入った。
「リートベルク嬢! それはどういう……!」
とっさに言い返そうとしたヘルミーネは、今いる場所がどこなのかにようやく気が付いて、厚い化粧がひび割れるほど顔を歪めた。
この暗い窖のようなみすぼらしい場所は──ルカに与えた私室だ。
汚らしい使用人たちの別館になど、長らく立ち寄ったことがなかったのですっかり失念していた。
「こ、これは……違います! 誤解ですわ! 私の話を聞いてください!」
「あなたがこの家の財産を浪費して豪遊しながら、いかに男爵の長男であるルカを虐げ、いかに自身の血を分けたご子息だけを贔屓してきたのか……嫌というほどよくわかりました」
実子と平等に愛せとは言わないまでも、人として連れ子に情をかけることさえできないのなら、あなたは男爵と結婚するべきではなかったのだ──とアレクシアは斬って捨てるように言った。
(おおおおお!!!)
使用人たちは喝采を叫びそうになって、思わず口を押さえる。
アウグストさえ無言ながら、大きくうなずいていた。
「私があなたのご子息を愛する? ありえません。もうこの屋敷に来ることは二度とないでしょう」
きっぱりと断言されて、ヘルミーネはあわてたが、時はすでに遅かった。
アレクシアはさらに一歩、男爵夫妻ににじり寄る。
鋭い視線でヘルミーネを完全に威圧し、令嬢とは思えない覇気をみなぎらせながら。
「あなた方はもうルカに関わるな。ルカは私が幸せにする」
(うおおおおおおお!!!!)
声なき声が、嵐のように轟く。
ヴァルテン男爵邸の別館は、使用人たちの万雷のサイレントスタンディングオベーションに包まれた。




