第72話 モニカとの再会
アレクシアが小刻みに震える拳を、ぎゅっと固くにぎりこんだ時。
ぱたぱたと軽い足音が、割れた石畳に響いた。
「ルカ様!」
息を切らせて駆けつけてきたのは、丸い瞳が愛らしい女性だった。鳶色の髪を乱れなく結い上げ、銀縁の眼鏡をかけて、家庭教師のようにきっちりとした控えめな服装に身を包んでいる。
「ルカ様、お戻りになったというのは本当でしたのね」
「モニカさん! お久しぶりです」
ルカが目を丸くすると、モニカと呼ばれた女性は嬉しそうに呼吸をはずませた。
「ご無沙汰しております。ルカ様、お帰りなさいませ」
ヴァルテン男爵家はその莫大な財産の管理と運用のために、専門の知識を有する管財人を雇っている。
モニカもその一人で、十数名ほどいる管財人の中で唯一の女性だった。
モニカは平民の出身ながら王都の最高学府を首席で卒業した才媛で、年齢的には若手の部類に入るが、豊富な知識量と実務能力の高さでは誰にも負けない。
博識で優秀な彼女は、今や男爵家の維持には欠かせない人材になりつつあった。
「一年前にルカ様が出立された時、ヨハンさんだけがお別れに行ったと後でお聞きして……。申し訳ありませんでした。あの日私がこのお屋敷にいたら、ヨハンさん一人で行かせたりはしなかったのに……」
申し訳なさそうに謝るモニカは、邸内に住み込みで働いているわけではない。夫と所帯を持っているため、近隣の街からヴァルテン家に通っていた。
「ありがとう、モニカさん」
──気持ちだけで充分だよ、とルカが返してすぐに、モニカはルカだけでなくアレクシアもこの場にいることに気が付いたらしい。あたふたと焦りながら、スカートのしわを直して向き直った。
「私ったら……なんて非礼を……!」
モニカは背筋を伸ばしたまま左足を後ろに引き、右足を曲げてお辞儀をした。上流階級の令嬢にも見劣りしない、美しい屈膝礼だ。
「おいでになっているとうかがいましたのに、ごあいさつが遅れて大変申し訳ございませんでした。どうか無礼をお許しください。──お初にお目にかかります。リートベルク辺境伯令嬢」
「別館に来たいと望んだのは私の方だ。かしこまらないでほしい」
モニカは感激したように両手を合わせた。アレクシアをまじまじと見上げると、
「なんて凛とした、お美しいお嬢様なのでしょう……」
と感嘆して、眼鏡を外した目元を指で拭った。
「ご婚約おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。ルカ様、本当にようございましたね」
「そうですよ! おめでとうございます!」
「ルカ様! よかったっすね! 俺たちも嬉しいっす!」
「あっ、それは、その……」
口々に祝福してくれる使用人たちを前に、ルカはうろたえた。
みんなが喜んでくれている分だけ、騙していることが心苦しい。
本当のことを打ち明けて謝りたい気持ちと、うかつに本物の婚約者ではないことをしゃべってはいけないと戒める気持ちが入り混じって、ルカはおろおろと視線をさまよわせる。
「みんな、ごめん。あの……」
「そこで何をしているの!?」
和やかな空気を一瞬で破壊したのは、ヒステリックな金切り声だった。
「おまえたち! どうしてこんなところに!?」
アレクシアを除く、その場の全員がすくみあがった。男爵邸に仕えていて、この声の持ち主に叱責された経験のない者などいないのだ。
ヘルミーネは集まっていた使用人たちを蹴散らすようにして押し退けた。
海が割れるように道が空いて、使用人たちはびくびくとおびえながら後ずさる。
ヘルミーネのそばには、顔色の悪いアウグストが無言のまま、幽霊のように茫洋と立っていた。
「早く持ち場に戻りなさい! 仕事を怠けた罰を受けてもらうわ!」
「私が呼びました。男爵夫人」
凛と飛んだ声に、ヘルミーネのみならず使用人たちもみな驚いた顔で振り返った。
彼らを背後に守るようにして、アレクシアはつかつかと前に進み出る。
「私が使用人たちをここに集めてもらうよう言ったのです。今日は急な訪問にも関わらず、心づくしのもてなしを受けて感激しました。このような素晴らしい仕事をしてくれたヴァルテン家の使用人に一言礼を言いたいと、私がルカに願ったのです」
とはいえ、すでに夜も遅い時刻。
ほとんどの使用人は仕事を終えて、別館の使用人棟に戻っている。
一人一人を呼びつけるのはかえって手間だし、一言感謝を伝えたいだけであって、大げさなことはしたくない。だから自ら使用人たちの棟に出向いたのだ──とアレクシアは説明した。
先ほどの晩餐の時もそうだったが、意外に即興ですらすらと嘘偽りを述べるアレクシアに、ルカは呼吸をするのも忘れて見とれた。
(……かっ……こいい……!)
前回も今も、アレクシアが嘘をつくのはルカや他の者たちを守るため。この場で最も身分の高い自分が盾になることで、他の人間たちが処罰されないように仕向けるためだ。
彼女のとっさの機転に感服するし、わずかな動揺も見せない肝の座り方を尊敬する。端的に言って惚れるしかない。もう惚れているけれど。
「このような夜分に、男爵や男爵夫人のお手をわずらわせるのは心苦しいですし、私の婚約者はこの家の長男なのですから、男爵を介さずとも彼がいれば非礼には当たらないでしょう?」
アレクシアはにっこりと笑顔で問いかけ、ヘルミーネはぐっと言葉に詰まる。
年齢はアレクシアの方がずっと下なのだが、家柄や身分の違い、さらには高い上背の迫力もあって、さしものヘルミーネも何も言えずにいた。
「呼びつけたのは私ですので、この者たちに咎はありません。仕事を怠けたのではなく、私の招集に応えただけなのですから。決して問責なきようお願いしたい。──ヴァルテン男爵、お約束いただけますね」
「はい……辺境伯令嬢……」
水を向けられたアウグストは、否応なく首肯する。
あえて当主のアウグストを指名して言質を求められたことで、この件についてはヘルミーネもうかつに口出しできなくなった。
(えっ……? お貴族様が……?)
(俺たちを……かばってくださった……?)
驚愕したのは、ヴァルテン家の使用人たちである。
自主的にこの場に集まった自分たちを、アレクシアは自分が呼んだのだと匿った。
貴族は平民を気遣ったりはしない。ヴァルテン家で働く使用人たちにはそう肌身に染みて知っていた。
高圧的な女主人。母によく似た利己的な次男。妻と息子を咎めもせず言いなりになっている、存在感のない当主。
長男のルカだけは優しかったが、彼は貴族というよりも自分たちの側に近い存在だ。
生粋の貴族というものは生まれながらに驕慢で、使用人など同じ人間とは思わないのが当然なのだ。
そう悟り、そういうものと割りきって働いていただけに、驚かずにはいられない。
(なんだこのお嬢様……すっげぇ……!)
あのヘルミーネを相手に、平民の自分たちを擁護してくれる貴族がいたことに、使用人たちは天と地がひっくり返るほどの衝撃を受けていた。




