第71話 使用人たちとの再会
「ルカ様……?」
暗がりの中に弱々しい声が這って、ルカははっと振り返った。
「そこに……おられるのですか?」
夜風が吹いて、手燭の灯りが揺らめく。炎がかそけく舞いながら、よたよたと近づいてくる人影の姿を映し出した。
「ヨハン!?」
かすかに汚れたコックシャツをひるがえした初老の男は、白い帽子を手に取って胸の前に掲げた。
男爵邸に仕える料理長のヨハンだ。
「ああ……ルカ様、ご立派になられて……!」
「ヨハン、久しぶりだね!」
ルカは一年のうちにぐんと成長したが、ヨハンは逆に老け込んでいた。
疲労からか落ちくぼんだ目元を歪め、しわがれた声をうるませながら、ヨハンはまぶしそうにルカを見上げた。
「見ての通り、私はすっかりよぼよぼの年寄りです。もうお暇をいただこうかと思っておりましたが、こうしてルカ様にもう一度お目にかかれるなら、老骨に鞭打って働き続けた甲斐がありました……」
「僕ももう一度、ヨハンに会えて嬉しいよ」
一年前にこの屋敷を後にした時、最後に言葉をかわしたのがこのヨハンだった。
ルカを見送っているのを見咎められたなら解雇されるかもしれない危険を冒しながら、ヨハンだけがルカとの別れを惜しみに訪ねて来てくれたのだ。
「ヨハンが教えてくれたレシピや調理法、リートベルクでとても役に立ってるんだ。ありがとう、ヨハン」
「私のお教えした技術が、お役に……?」
ヨハンは白くなった髪を震わせた。
この家の長男でありながらダイニングホールでの食事さえ許されず、家族の輪から爪弾きにされていたルカの小さな背中が、今でもありありとヨハンの目に浮かぶ。
せめてもの手慰みにと教えた料理を、幼いルカは無邪気に喜び、何でも素直に吸収してくれた。
「……そうでしたか。ええ、技術は裏切りませんからね。あなたはとても……優秀な弟子でした……」
感極まったようにすすりあげるヨハンの、こけた頬に涙がぽたぽたとつたった。
ルカは痩せてひと回り小さくなったヨハンの背を、労わるように優しくさすった。
「ルカ様!」
「帰っていらしたのですね!」
「わぁぁ……ルカ様ぁ……!」
話し声を聞きつけたのか、次々と部屋の扉が開き、使用人たちがわらわらと廊下に出てきた。
従僕に馬丁に雑役夫、庭師に料理人にメイドたち。
ヴァルテン家に住み込みで働く使用人たちが持ち場を離れ、自室を出て、続々とルカの部屋の前に集まってくる。
「本当にルカ様だぁ……!」
「こんなに背が伸びて……すっかりたくましくなられて……!」
「見違えましたよ。お元気そうで本当に良かったです!」
ルカは一年の間に驚くほど身長が伸び、目を疑うほど筋肉を付けていた。
仕立ての良い礼装は、今住んでいる場所で作ったものなのだろうか。貴族の貴公子らしく洗練された服装は今のルカにとてもよく似合っていて、誰もが思わず目頭を熱くした。
「みんな! 久しぶりだね」
ルカは涙ぐむ一人一人の名前を呼び、抱擁しあう。
アレクシアは邪魔をしないよう、一歩引いた場所からルカと使用人たちの再会を見守っていた。
ルカがなぜこの歪んだ家で、魂までは腐ることなくまっすぐに育ったのか。
ルカと使用人たちのあたたかな絆から、その理由が見えるような気がした。
「ルカ様……助けてさしあげられず、申し訳ありませんでした」
「ずっとルカ様のことが気がかりでしたのに、奥様に逆らえず、お供することもできず……」
「そんな……みんなは良くしてくれたよ。ありがとう」
ルカはふるふるとかぶりを振った。
「それに、今ではあの時この家を追い出されて本当に良かったと思ってる。おかげで毎日幸せに過ごしているよ」
「それは見ればわかります。すっかり見違えるようにご立派になられて、こんなに嬉しいことはありません……。まるで胸のつかえが取れたような気がいたしました……」
ヨハンは嬉し泣きにむせびながらそう言ったが、アレクシアは二人の会話に不愉快そうに眉をひそめた。
(この家を追い出された? やはりそうだったのか……)
あのマティアスという弟は、ルカが自分を虐げていたと饒舌に語っていたが、どう考えても実情は逆のはずだ。
一年もリートベルクの地で暮らしていたのに、ルカはヴァルテン家で受けた酷薄な仕打ちを、少しもアレクシアたちに訴えたことはない。
弟だけが偏愛されていたことも、ルカが不当な扱いにさらされていたことも、この家を見れば一目瞭然なのに、一度だってルカの口から聞かされたことはない。
ルカがアレクシアに、自分の不幸を語ったのはたった一回だけ。
それすら自らを哀れんだり、誰かを恨んだりする内容ではなかった。
『──でも、あなたに会えました』
あの日。ルカがヴィクトルと酔い潰れた翌朝のこと。
清新な空気に満たされた早暁。黎明の光がさしこむ庭で。
男爵夫妻への怒りをにじませるアレクシアの瞳を真っ向から見つめて、ルカは言った。
『悲しかったことも、悔しかったことも、みじめだったことも全部……』
ルカのまっすぐな目は、視線を反らすことができないほど透明に澄んでいた。
『あなたに会えたことで、全部が報われました。アレクシア様──』
それだけだ。
悲しみも悔しさもみじめさもあったと認めながら、嘆きも憎悪も怨恨もルカは見せなかった。
ただ純粋に、アレクシアに出会えた人生で良かった、と言ってくれた。
あんなに綺麗で偽りのない想いを、捧げられたのは初めてだった。
(……)
好感を抱かなかったわけではない。ルカの純真な気持ちは心地良いと、素直に思った。
だがそれ以上に、臍を噛むようなもどかしさが、アレクシアの胸の奥を刺し貫いていた。
(ルカは優しすぎる……)
アレクシアに出会えた──だから何だ。
そんなことで彼のこれまでの苦労が、帳消しになどなるものか。
ルカの立場なら、自分を虐げてきた家族に報復したいと思っても不思議ではない。
今まで味わってきた屈辱を晴らし、報いを受けさせたいと願ってもおかしくはない。
それなのに、ルカは復讐を願わない。
不平や不満は洩らさず、置かれた境遇を呪いもしない。
ただ使用人たちに感謝を伝え、抱き合って再会を喜び、見返りを求めない無償の愛をアレクシアに注いでいる。
どこまでお人好しなのだと感じ入るとともに、歯がゆいような焦れったいような、これまで味わったことのない不思議な気持ちが心に芽生えていくのを、アレクシアは感じていた。




