第70話 懐かしい部屋
二つの部屋の間にある扉を閉じて、いったん内鍵をかける。
しばらく待っていると、アレクシアは着替えを済ませて部屋の外に出てきた。胸元に切り替えがあるエンパイアラインのドレスは、先ほどまでの凝った装いよりは格段に動きやすそうだ。
「ようやく呼吸が楽になった。コルセットは苦しくて慣れないな」
アレクシアがほっと息をついて苦笑するから、ついルカもつられて微笑んでしまう。
笑ったのは、この屋敷に足を踏み入れてから初めてだった。
「少し歩きますが……」
「かまわない」
ルカは片手に小さな手燭を持ち、もう片方の手でアレクシアの手を取った。
そっと部屋を出て階段を降り、いったん居館の外へと出る。
薄暗い渡り廊下が闇夜に翳りながら、居館と離れの別館とを結んでいた。
日の暮れた回廊を進みながら、アレクシアはふと気になっていたことをルカに尋ねた。
「ヴァルテン男爵は本当に物静かな方なのだな」
「はい。以前から寡黙でしたが……何だかさらに口数が少なくなった気がします」
一年ぶりに会う父アウグストは、さらに無口さに磨きがかかったようだった。
ダイニングホールでの晩餐でも、サロンでの茶会でも、前のめりで話すのはもっぱらヘルミーネばかり。
アウグストは妻に反比例するかのように口を閉ざして、ほとんど会話に加わろうとはしなかった。
「正直に言えば、実際にお会いするまで、ヴァルテン男爵は父親として無責任なのではないかと思っていた。今は少し、印象が違う。無責任というよりも……無気力になっておられるような気がする」
「はい。僕もそう思います」
アウグストは以前から物憂げで、気だるい雰囲気を帯びていることが多かったが、それでも男爵家の当主としての執務は、執事らの力を借りつつ何とか行っていた。
今は大丈夫なのだろうか。父にただよう倦怠感がより酷くなった気がするが、この家はまともに機能しているのだろうか。
「奥様と夫婦でいるのは疲れるだろうということは想像がつきます。父は滅入るあまり、気鬱に陥っているのかもしれません……」
心の通わない相手と夫婦でいつづけるのは、それだけで疲弊することだ。
ヘルミーネのような我の強い妻に四六時中かまびすしく喚かれ、のべつまくなしに騒ぎ立てられたら、アウグストでなくても辟易とするだろう。
離縁すればいいと思われそうだが、貴族の結婚は当人だけの問題ではない。家と家との契約であり、婚姻の時と同様に王家の承認を得る必要もある。正当な理由を挙げることも求められ、性格の不一致程度では認められない可能性も高い。
ヘルミーネ自身はもちろんのこと、彼女の実家であるシェンバッハ伯爵家とてたやすく離婚に同意はしないだろうから、話を持ちかけるだけで泥沼になるのは想像がつく。
よしんば王家の承認と、シェンバッハ家の同意を取り付けたとしても、ヘルミーネは生半可な慰謝料や財産分与では納得しないだろう。
後継者であるマティアスの存在も大きい。彼がいる限り、ヘルミーネとの縁は切っても切れないのだ。
マティアスがいずれヴァルテン男爵になれば、たとえヘルミーネとの離婚が成立していても、多額の金が息子を通じて母親の元に流れていくに違いないのだから。
結婚よりも離婚の方が大変だ、と俗に言われる。まさしくその通りなのだろう。
離縁の意向を切り出し、気の遠くなるような話し合いを重ね、一つ一つの条件をすり合わせていく工程は、体力気力にあふれた健康な者であっても相当に疲労困憊する。
今のアウスグトはとうてい離婚の手続きを完遂する気力など、持ち合わせていないのではないだろうか。
だからアウスグトは目をつぶり、耳をふさいで、沈黙を決め込んでいる。現実逃避には違いないが、そうでなければ心身ともに壊れてしまう。それほどまでに追い詰められている。そんな風にも見受けられた。
アレクシアは秀麗な眉をひそめた。
「男爵のご様子は気にはかかるが……さすがに夫人との関係にまで意見するのは、差し出口が過ぎるだろうな……」
そんなことを話しているうちに、別館にたどり着く。
館内には使用人たちの寝起きする部屋が、寮のように整然と並んでいた。
さらに壁に沿って歩き、階段を半地下まで降りる。
そこから突き当たりまで進むと、備品や備蓄を貯蔵しておく倉庫のような一角に行き着いた。
地上よりも下がった冷ややかな室温の中に、カビとほこりの臭いが入り混じる。
湿った空気が肌に張り付き、アレクシアの喉を不快にふさいだ。
「ここです」
ルカが示したのは、窖のような一角だった。
部屋の壁には亀裂が走り、あちこちがひび割れている。壁は白い漆喰で塗りこめられているが、半分以上が剥げ落ちて、崩れた破片がぽろぽろと床に溜まっていた。
先ほどのダイニングホールの、きらびやかな真珠色の壁とは雲泥の差だ。
「ここが僕の部屋でした」
「……ここが? まさか……」
アレクシアは絶句した。
閑散とした部屋の中で、家具と呼べるものといえば骨が剥き出しの粗末なベッドと、古ぼけて傾いたチェストくらい。
暗いのは夜であるせいばかりでなく、北向きの作りになっているためだろう。壁には小さな窓がついているが、本館の影が覆いかぶさるせいで、日中でも光はほとんどさしこまなさそうだった。
鉄格子がないことを除けば、牢獄のようだ。いや、リートベルクの監獄の方がまだしも衛生的かもしれない。
「……ここは倉庫か納戸ではないのか?」
「元々はそうだと思います」
「貴族の長男をこんな部屋に……?」
たった今、倉庫ではないのかと聞いたばかりだが、自分の城ならば芋や小麦の袋さえこんなカビの生えた劣悪な環境に置いたりはしない。
アレクシアは静かに憤りをみなぎらせたが、ルカは特段みじめに思っている様子はなかった。むしろなつかしそうに目を細めながら、平然と首を振った。
「暮らせば慣れるものです。別にこの部屋を辛いと思ったことはありません」
口ぶりが明るいだけに、かえって彼の苦労がしのばれた。部屋などよりも他にもっと辛いことがあったのだろう──と。
(ヴァルテン家が貧窮に喘いでいるのならまだしも……表ではあれほど贅を尽くしながら、ルカにはこの扱いだと?)
アレクシアは眉間に手をやった。
ますますあの男爵夫人が許せなくなってきた。自分の子が虐げられているのに黙認する男爵もだ。
気鬱に陥っていることは理解するが、我が子がこんな目に遭っているのに放置している場合か──と男爵を問い詰めたくなる。
ルカが頼れるのは、この家でただ父親だけだったはずなのに。
リートベルクに来てからのルカは、いつも明るくて朗らかだった。
誰とでも打ち解け、誰よりもよく働き、どんな時も楽しそうに過ごしていたルカが、こんな掃き溜めのような場所で冷遇されていたとは想像もしなかった。




