第69話 貴賓室
とにかくルカの部屋はもう無い──と一点張りのヘルミーネが、二人に用意したのは貴賓室だった。
解放感のある高い天井に囲まれた貴賓室は、二つの部屋が間続きになっていて、端から端までは見渡すほど広い。
それぞれの部屋の出入り口以外に、中間にも扉があるが、アレクシア側の部屋の方から内鍵を施錠できるようになっていた。
「わ……!」
ルカは目を丸くする。
入室してまず目に飛び込んできたのは、巨大な花瓶に生けられた豪華な花束だった。
あふれるほど大量の花が飾られ、部屋はむせ返るような甘い蜜の香りで満たされている。
「凄いな……」
花瓶の手前には、大小いくつもの箱が並べられていた。よく言えば贈り物、悪く言えば賄賂だ。
箱は正面に向けて置かれ、開封しなくても中身が見えるようになっている。
ざっと眺めただけでも真珠のネックレスに金のブレスレット、宝石をあしらったブローチにシルクのレースハンカチ──どれも目もくらむような上等な品ばかりだ。
すべて女性用の装身具で、ルカが身につけられるものは一つもないのもヘルミーネらしい。
「この一点だけでも、館が一軒建ちそうだな……」
大ぶりの緑柱石が象眼されたスクエアカットのブローチを光に透かしながら、アレクシアはつぶやいた。
これほどの大きさ、しかも透明度の高い緑柱石となると、かなり希少な逸品だ。
「本当に資産家なのだな、ヴァルテン家は」
「すみません……何だか露骨で……」
金にものを言わせて、意のままに従わせようとする魂胆が見え見えだ。いかにも成金らしいやり口で、ルカの方が気恥ずかしくなる。
思わず詫びると、アレクシアは首を振った。
「ルカが謝ることじゃない」
あの男爵夫人は勇み足を踏むあまり、空回りしているようだ。躊躇のない贈賄の攻勢からは、マティアスの経歴に傷がつきそうなスキャンダルは何が何でも揉み消すという、なりふりかまわない気迫が感じられる。
「まぁ、受け取るわけにはいかない。丁重にお返ししよう」
「はい」
うなずいて、ルカは貴賓室をぐるりと見渡した。
絹張りのソファーも、大きなベッドも豪勢すぎて、座ることはもちろん、触れることさえためらわれる。
この家でこんな良い部屋に寝泊まりするのは初めてで、くつろげるどころか、逆にひどく居心地が悪かった。
「ルカの部屋は、本当はまだあるのだろうな」
「はい。手付かずだと思います」
ルカがこの家を出るまで使っていた自室は、特に高級品が置いてあるわけでもなく、そもそもヘルミーネが立ち入るようなスペースですらない。
彼女にとって必要のない場所なのに、わざわざ手間をかけて片付けさせるとは思えなかった。
「あの……アレクシア様。ありがとうございました」
「何がだ?」
「この家に来る利点など、アレクシア様には何もなかったでしょう?」
二人はヘルミーネの招待を受ける形で王宮のパーティーを中座し、ヴァルテン家を訪れたが、アレクシアの立場を考えれば、あのまま会場にとどまっていた方がずっと有意義だったはずだ。
盛大な宴の主催は王家。筆頭公爵であるノルデンブルク公爵以下、国内のほとんどすべての貴族の家が参列する。
華やかな社交界で顔を売り、人脈を作り、友誼を築くにはまたとない好機だ。
年若い独身の令息令嬢なら、パーティーを通して将来の結婚相手を見つけることもめずらしくない。
アレクシアも未婚なのだから、出会いのチャンスはあったかもしれない。送り出した側のブリギッタとて、あわよくばと期待していたのだから。
もちろんアレクシアに他の男となど出会ってほしくない──とルカ個人的には強く思うが、大切な令嬢に良縁を望むブリギッタの気持ちは理解できる。
王国中の貴人が一堂に会する貴重な場は、運命の出会いを果たす可能性のある貴重な時間でもあった。
実際アレクシアの両親であるヴィクトルとルイーゼが初めて出会ったのも、かつて開かれた同じパーティーの中でだったのだから。
「ここに来て良かったのですか? アレクシア様には何の得もないのに……」
「損得を考えたわけじゃない。私が見たかったんだ、ルカの育った家を」
それは本心だった。
そして実際に自らの目でヴァルテン家の内部を見聞した結果、ルカを取り巻く環境は想像以上に悪かったのだと、アレクシアは確信した。
家の面目も考慮せず、詭弁を弄してルカを貶めようとする男爵夫人にも、弟の肖像画だけが派手に飾られた邸内にも、それを是正しようとせずに看過している男爵にも、率直に言えば腹が立った。
ここまで弟とあからさまに差別されて、よくルカは辛抱強く耐えてきたと思ったし、長年さぞかし窮屈に暮らしてきたであろうことを想像すると、不憫で仕方なかった。
「あの男爵夫人の言動は目に余るな。今日のところは様子を見るべきだと思いつつ、酷さに耐えきれずについ言い返してしまったが……ルカの承諾も得ずに、余計なことを言っただろうか?」
「いいえ、格好良かったです」
尋ねるアレクシアに、ルカは首を横に振った。
「それなら良かった」
ルカが不快に思っていないのなら良かった──とアレクシアは安堵した。
男爵夫人には思い上がった生意気な女だと大いに憎まれているだろうが、そこはまったく気にならない。
「不快になんて思いません。それどころか……」
ルカはさらに強く、かぶりを振った。
ここはルカの実家なのだから、ルカが主体的に動くべきなのだ。
それなのにこの家にいると、うまく呼吸ができない。胸に焼き付けられた火傷の跡が痛んで、言葉がろくに出てこない。
ルカが前面に立ってリードするべきだとわかっているのに、体が硬くこわばるばかりで、現状何の役にも立てていない。
それなのに、アレクシアはルカを守ろうとしてくれる。
不甲斐ないルカを一言も責めずに、ヘルミーネがルカを貶そうとすれば否定してくれる。悪しざまに罵ろうとすれば擁護してくれる。
そんなこと、願ったこともなかった。
誰かがルカをかばって、ヘルミーネに言い返してくれるなんて、想像したこともなかった。叶うはずもない願いなんて、祈ったことすらなかった。
この屋敷では常にヘルミーネの言うことが絶対だった。
当主であるアウグストすら妻と向き合うことに疲れきり、早々に沈黙を決め込んで、唯々諾々とヘルミーネの好きにさせてきた。
父が何もしてくれないのなら、ルカにはもっと何もできない。
どんなに嘲られても、理不尽に踏みにじられても、口をつぐんで耐えるしかなかった。
ずっとそうやって、心を殺してきたこの家で。
はじめて、ルカを守ってくれた人がいた。
「アレクシア様……好きです」
ルカはその場に片膝をついた。
ほとぼる心臓に手を当てて、一番好きな人の顔をまっすぐに見上げる。
自分を守り、盾になってくれたアレクシアのことを、もっと好きにならずにはいられない。
これまで以上に恋心があふれて、まぶしくて、愛しくてたまらなかった。
「誰よりも愛しています。偽者の婚約者なのに……僕をかばってくださってありがとうございました」
──偽者、という言葉にどうしようもなく痛みを覚えたが、この痛みは甘んじて受けなくてはならない。
どうあがいても、ルカは本物にはなれない。こうして今夜、婚約者として振る舞えただけでも望外の幸せなのだ。
アレクシアの口から、婚約者だと告げてくれた。ルカの出自を気にしたことはないと言ってくれた。それだけでいい。
その場しのぎの嘘でいい。今だけの方便でかまわない。
その言葉を聞くことができただけで充分だ。
これ以上を望んではいけない。
一期の夢は覚めれば終わるのだと、ちゃんと理解している。
アレクシアはルカのすべてだ。
初めて恋したたった一人の女性。
この美しくて高貴な人に、迷惑をかけることだけはしたくない。
「心配なさらないでください。勘違いしたりはしません。自分の身の程はわきまえています」
そう言うルカの声は、どこまでも純粋に澄んでいた。
透き通った瞳に射すくめられて、視線を反らすことができない。
「ルカ……」
曇りのない無垢な表情に、無性に庇護欲をかきたてられる。
弾かれたように、アレクシアは腰を浮かした。
「ルカの出自を卑しいと思ったことがないと言ったのは嘘ではない。私は本当に……」
固くにぎりしめたルカの拳に、アレクシアが己の手を重ねようとした時だった。
廊下に控えめな足音が複数続き、ドアをノックする音が響く。
そろいのお仕着せを着たメイドが三人、深々と礼をしながら部屋の前に立っていた。
「失礼いたします。お嬢様のお世話を仰せつかりました。何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとう」
メイドたちは白い箱を抱えていた。パーティー用のイブニングドレスから普段着のデイドレスに着替えるため、身支度に用いる道具類を運んできたのだろう。
「着替えられますか?」
「ああ、そうしたい」
アレクシアはうなずき、ルカに手をさし出した。
「すぐに済ませる。だから、先に行かずに待っていてくれ」
「えっ……」
思わずまたたいた水色の視線が、真っ向から見返してくる青の視線と混ざりあった。
「ルカの部屋だ。一人で行くつもりだったのだろう?」
「……はい」




