第62話 挑発
アレクシアはドレスの裾をひるがえして向き直る。
「──ヴァルテン男爵令息」
アレクシアの青色の瞳が、これまでで最も辛辣にマティアスを射抜いた。
「私は、そなたのような弱い男は嫌いだ」
マティアスは耳を疑った。
「は……? 弱い……?」
マティアスは剣の天才だ。そう自認している。
ヴァルテン家では名うての騎士たちを何人も高給で雇っているが、マティアスは子供のころから彼らと打ち合っても、一度たりと負けたことはない。
マティアス様は類いまれな才能をお持ちです──と常に褒められ、称えられ、持てはやされてきたのだ。
「はは……。馬鹿なことを……」
自信のある分野を指摘されたことで、心に余裕が戻ってくるのをマティアスは感じた。こわばっていた顔に再び笑みを浮かべ、白い歯を見せて笑う。
「リートベルク嬢はご存知ないのですね。あいにく私は多少なりとも、腕に覚えがあるのですよ」
「では見せてみるがいい。その価値もないと思うがな」
冷たく言い放たれて、マティアスの額に青筋が浮かんだ。
「何……だと……!」
その価値もない?
あまりの言い様に、マティアスは己の耳を疑う。
(この女……私を無価値呼ばわりする気か!?)
リートベルクの令嬢は確かに女にしては上背があるが、だからといって男よりも強いとでも勘違いしているのだろうか?
とんだ思い上がりだ。腕力や剣技で、女が男に勝てるはずがない。
「そのような中傷……上位貴族といえど見逃せるものではありません」
──この女に思い知らせてやりたい、とマティアスは狂おしいほど願った。
マティアスの剣才も知らずに見くびってくるような愚かな女には、実力を見せつけてやるのが一番効果的なはずだ。
華麗な剣舞を披露すれば、アレクシアの目も覚めるだろう。
なんて見事な剣さばきなのだと感激してマティアスを見直し、こんな天才的な達人とは思わなかったと手のひらを返す。きっとそうだ。そうならなくてはならない。
「私を侮れば、後悔することになりますよ……」
向けられるアレクシアの青い目が、憎らしいほど美しい。
美しい分だけ悔しくて、欲しくてたまらない。
脅しを込めて、マティアスは壁に飾られていた剣に手をかける。
精緻な透かし彫りの柄頭のついた、アンティークの長剣だ。
黒い留め具に置かれていた剣は持ち上げるだけで簡単に手に取れたが、つい力が入り過ぎたのか、マティアスの指にはめていた白い手袋の指先が、留め具の先端に引っかかって破れた。
理性の最後のかけらが振り切れたのは、その直後だった。
武器を見て恐怖を抱き、前言を撤回して非礼を詫びると思ったアレクシアが、心底見下げたような冷たい表情で嗤ったのだ。
「そなたには無理だ」
ただでさえ血がのぼっていた頭は、その言葉でついに沸騰した。
「この……野蛮令嬢が!」
思わず剣先を向けても、アレクシアは身じろぎ一つしなかった。
怖くて固まっているのだろうが、いくら震えあがってももう遅い。女の分際で男を侮辱した愚行を悔いて、許しを請うてもらわなくては気が済まない。
普通の人間ならば、丸腰の相手に剣をふりかざすのは騎士道に反する行いだと恥じるものだ。
しかし、無抵抗の兄に一方的に暴力をふるうのが日常だったマティアスは、そのあたりの感覚が麻痺していた。
もしもマティアスが兄への横暴を咎められたり諌められたりした前例があれば、この場においても冷静になれたかもしれない。
だが母親をはじめとする実家の誰もがマティアスを叱ったことがなく、どんな言動も甘々に許してきたことが、彼を自制のきかない幼稚な男に育てていた。
「無礼で粗野な女だ! そのように野蛮な女だから、侯爵にも等しい辺境伯の令嬢でありながら、王族の妃候補にもならないのだろうが!」
感情的にわめきながら、マティアスは渾身の力で剣を振り下ろした。
アレクシアはため息をつく。
よくこうも簡単に挑発に乗ってきたものだ。さぞかしこれまで甘やかされ、何でも思い通りになってきたのだろう。
「──っ!?」
アレクシアはわずかに半歩、右に逸れる。
逃げたのでも大きく距離を取ったのでもない。剣筋を完全に見切り、最低限の動きだけで避けたのだ。
かざした切っ先が虚空を掻いて、マティアスはバランスを崩した。
「うあっ!」
ドレスの下の足が、目にも止まらぬ速さで繰り出される。
剣を持つ手を絶妙に避け、柄頭だけを的確に蹴り上げられて、長剣はくるくると宙に舞い上がった。
回転しながら地上に落ちてきた時、剣の柄はもうアレクシアの手にあった。
反撃はおろか、反応することもできずに茫然と固まるマティアスを冷たく見下ろしながら、アレクシアは切っ先を彼の喉元にびたりと突きつけた。
まるで剣術の手本を見せるかのような、完璧な動きだった。
「……そ……そんな……」
マティアスは剣を失った手をわなわなと震わせた。
突きつけられた剣の先端が、じりじりと目前に迫る。
──斬られる、と思わず目をつぶった刹那、アレクシアは剣を引いた。
マティアスを顧みることなく、背を向けて立ち去ろうとする。
「あ……ああ……」
遠ざかっていくアレクシアの姿に、マティアスの体が自ずと動いた。
「う……おおッ!」
もはや自身でも止められない感情に突き動かされて、背後からアレクシアにつかみかかり、覆いかぶさる。
「やめろ!」
制止する声と共に、したたかに殴り付けられて、マティアスは飛んだ。
比喩ではなく、本当に飛んだのだ。
割って入った拳にとてつもない力で押さえつけられて、アレクシアから引き剥がされた。気がついた時にはもう身体が浮き上がり、空中を飛んでいた。そのまま壁に強く背を打ちつけ、頭から崩れ落ちる。
「ふざけるな! アレクシアに何をする!」
怒り心頭で、マティアスを殴り飛ばしたのはルカだった。
マティアスが兄に暴力をふるったことは数えきれないが、逆は生まれて初めてだ。
刃向かってきたことだけではない。兄の目つきも初めてだった。
長年同じ家に住んでいたのに一度も見たことのない、本気の怒りが燃える双眸で、ルカは強く弟を睨んでいる。
「あ、兄上……!」
腰が抜けたようで、立ち上がることができない。マティアスは狼狽した。
兄はこんなに力が強かっただろうか?
しばらく見ないうちに驚くほど背が伸び、見違えるほど筋肉を付けたとは思っていたが、腕力までもが別人のようだ。
殴られた顔が痛い。痛くてたまらない。今すぐ何十倍にもして報復してやりたい。兄に自分の身の程を叩きこんでやりたいのに。痛みで体を起こすことさえままならなかった。
「……?」
憎々しげにルカを睨みつけるマティアスの前に、アレクシアがつかつかと歩み寄った。
アレクシアはまだ手に剣を持っていた。男のマティアスすら重量を感じる、年代物の古い長剣だったが、アレクシアは軽々と振り回して一回転させると、そのまま床に突き立てた。
腰が抜けたままのマティアスの足の間。ちょうど股の部分すれすれに突き刺さった長剣は、刀身の半分近くが大理石の床に埋まっている。
「……は? ……はぁぁ!?」
(女が? 片手で突いただけで? 剣が床にめり込む……!?)
両腿の間にきらめく長剣に、マティアスの下半身がヒュッと縮こまる。
マティアスがぞっと総毛立った瞬間だった。
誰かが大広間を出て、こちらに向かってくる気配がした。




