第60話 マティアスとアレクシア
アレクシアは辟易としていた。
声をかけてくる男たちは引きも切らない。愛想を振りまくこともなく、無視も同然の態度を貫いているというのに、全員まったくめげる様子がなかった。
先ほど宮廷におけるマナーを持ち出して、クレーフェ伯爵令嬢からの牽制をやり返したばかりだが、彼女に限らずマナーなど実際は誰も守ってなどいないのかもしれない。
──ルカを探そう、と立ち上がった時だった。
人波を強引にかきわけて、一人の男がアレクシアに近付いてきた。
「お初にお目にかかります。リートベルク嬢」
金糸銀糸で彩られた礼服と、高級な繻子織りのシャツがきらびやかに輝く。
身にまとう衣装の仕立ての良さは一目でわかった。生地から縫製に至るまでふんだんに金をかけた、贅沢極まる装いだ。
「マティアス・アウグスト・ヴァルテンと申します」
マティアスはアレクシアの手を取り、口づけようとする。だが、唇が触れる直前にアレクシアはすっと手を引き抜いた。
──気位の高い女なのだな、とマティアスは唇の端を上げて苦笑した。そんなところにもそそられるが。
「驚きました。あなたがこんなにもお美しい方だったとは……」
初めて対面するアレクシアの鮮烈な美しさに、マティアスは陶然と見惚れた。
こんなにも胸が激しく湧き立つのは、兄のルカの婚約者だったナターリアに目を奪われた時以来だ。
かつて兄にエスコートされていたナターリアは、それは可憐でいたいけで、魅力的な女性に見えた。
兄と並んで楽しそうに笑っているナターリアの笑顔を見た時、マティアスは無性に彼女のことが欲しくなった。
兄が不在になった隙をみてナターリアに近づき、華麗に手をさし出した。
──美しい方。どうか私にあなたと踊るひとときの栄誉をお与えください。
そこからは赤子の手をひねるよりも簡単だった。兄の悪評を吹きこめばナターリアはあっさり信じ込み、甘い言葉を連ねて口説けば容易になびいた。
兄と将来を誓ったはずの女が、マティアスにきゃしゃな肩を抱かせ、花の蕾のように愛らしい唇を許す。
兄に勝ったことは、マティアスの自尊心を大いに満たした。
ほら、婚約者であろうと劣った兄より優れた自分を選ぶのだと思うと、愉快でならなかった。
勝利の快感が最高潮に達したのは、兄に婚約破棄を言い渡した瞬間だった。
王宮のパーティーで衆人環視の中、兄を断罪し、ナターリアと愛を誓ったマティアスは、観衆からの礼賛を一身に浴びた。
それなのに。
(ナターリアがあんなに頑固な女だったとは……)
婚約を交わした後になって、ナターリアは変わってしまった。
ヴァルテン家に嫁ぐことを嫌がり、話が違うと怒るナターリアは、マティアスと愛を約束した時の可憐な姿とは別人に見えた。
マティアスの母ヘルミーネへの愚痴を連ね、何とかしてくれと迫ってくるナターリアは、気の強さと口うるささばかりが鼻について、もう以前のような愛らしいだけの恋人には思えない。
きらびやかな宝石のように見えた女性は、手に入れた途端にただの石ころのように見えてきた。
騙された、とさえ思う。婚約した後に本性を見せるなんて詐欺だろう。話が違うと言いたいのはこちらの方だ。
こんなことなら兄に押しつけておけばよかった、とマティアスは臍を噛む。
こんな強情な女だとわかっていれば、ナターリアを口説いたりなどしなかったのに。
だが、リートベルク辺境伯の令嬢は違う。
こんなに心惹かれる女性には、これまで出会ったことがない。
運命の相手はナターリアではなく、彼女なのかもしれない。
神がマティアスを導き、ナターリアと正式に結婚する前に、正しい相手にめぐり会わせてくれたのかもしれない。
マティアスはうやうやしく片膝を折ると、アレクシアに微笑みかけた。これまでどんな女ももれなく落としてきた、完璧な所作で。
「美しいお方。どうか私にあなたと踊るひとときの栄誉をお与えください」
「お断りします」
「は?」
自分が拒否されるなどとかけらも思っていなかったマティアスの、自信に満ちた表情が間抜けに歪んだ。
「つれないお方だ。私を試しておられるのですか? わざと冷たくして私の気を引こうと?」
アレクシアは答えずに、失望の色を浮かべた。
歯の浮くような口説き文句や、見当違いな受け取り方に頭痛がする。
(……こんな軽佻浮薄な男が、本当にルカの弟なのか?)
見た目といい、中身といい、この男はルカと少しも似ていない。
ルカの人柄から異母弟もきっと誠実な人物なのだろうと想像していたのに、悪い意味で予想とは違った。
この弟はルカから婚約者だったクレーフェ伯爵令嬢を奪ったのだから、さぞかし彼女のことを深く愛しているのだと思っていた。
しかし見る限り、今日のパーティーの中でまだ二人は踊っていない。
ファーストダンスを婚約者ではなくアレクシアに申し込むとは、いったいどういう了見なのだ。
「私をダンスに誘う暇があるのなら、婚約者のもとに行ってはいかがですか? 兄君から奪ってまで真実の愛とやらを貫いた相手なのでしょう?」
「う、奪ったなどと人聞きの悪い……。違うのです、リートベルク嬢は誤解されています……!」
ナターリアとの不協和音を見抜かれたような気がして、マティアスはあたふたと言葉に詰まる。
しかし、同時に納得もした。
なるほど、リートベルクの令嬢はマティアスに婚約者がいることを知り、自重しているというわけだ。叶わない恋ならば始めない方がいいとわきまえ、傷つく前に身を引こうとしているのだ。
ならば、壁を崩してやるのが男の役目だろう。
「確かに私は婚約者のある身です。ですが、蝶が花に惹かれるのをどうして止められましょう。リートベルク嬢……私は一目見ただけで、あなたの美しさに魅せられてしまいました……」
まるで詩を吟じているかのような、陶酔した声だった。
本人は自分の詩才に酔いしれているが、アレクシアのまなざしはますます冷めていく。
「許されない恋と知りながら、あなたという麗しい花を愛してしまった……愚かな私をお笑いください」
「ええ。愚かですね」
「は?」
「何を驚いているのですか? あなたがご自分で言ったのでは?」
マティアスはわなわなと震えた。
自分のことを愚かだと称したのはただの世辞だ。社交辞令だ。遜ってみせただけに決まっているのに、この女は何を真に受けているのか。
マティアスが動揺している間にも、アレクシアはさっさと立ち去ろうとする。
マティアスはあわてて呼び止めた。
「リートベルク嬢! お待ちください!」
おそらく兄が事前に自分の悪口を吹きこんだに違いない──とマティアスは混乱する頭の中で推理した。
辺境伯令嬢は兄の卑劣な讒言を真に受けて、マティアスにこんな冷淡な態度を取っているのだ。そうでなければ、女性が自分を袖にするなどありえない。
(くそッ! 兄上め……!)
いわれのない誹謗中傷で言いくるめて女性を洗脳するなど、なんと卑怯なのだ。これだから汚れた平民の血を引く兄は卑しい。
「お願いです。どうか二人きりになれる場所へ移りませんか? あなたにだけはお話しておきたいのです。兄の真実を……」
「……」
顔を近づけて誘いかけると、アレクシアは表情は変えなかったが、興味はそそられたようだった。
マティアスは紳士らしく手をさし出したが、アレクシアは触れようともしない。一人でさっさと先を歩いて、大広間を出た。
「くっ……」
先ほどのダンスの時、兄とはあんなに親しげに手を握り合っていたではないか。
それなのになぜ、マティアスの手は触れることすら拒むのだ。




