第55話 再びの王都
日は飛ぶように過ぎ去っていく。
王宮でのパーティーを目前に控えた、初夏の午後。
アレクシアは俎上の魚のように脱力していた。
「もう何とでもしてくれ……」
肌に美容液。髪に香油。上質の香水を焚きしめ、大輪の薔薇を浮かべた浴槽に浸かる。長い髪の先まで丹念に梳り、爪の先まで専用の鑢で磨き上げる。
普段は化粧を好まないアレクシアも、今回ばかりは逆らう気力はなかった。
はりきるマリーたちに身を委ねて、白粉をはたかれたり頬紅をさされたり唇を塗られたりと、おとなしくされるがままになっている。
メイド陣がこの機とばかりに、一致団結してアレクシアを取り囲み、いじくり回し、思う存分磨きあげること数時間。
ことり、とマリーが鏡台に化粧道具を置く音がした。
「やりました! 全力を尽くしました!」
「おおっ!」
マリーが達成感をにじませながら、両手を高く突き上げて宣言すると、その場の全員が万雷の拍手を惜しみなく贈った。
割れんばかりの快哉の中。
ルカは感動にうち震えていた。
「……尊い……!」
飾り気のない普段のアレクシアですらまぶしいのに、正装したアレクシアなんて神々しいしかない。
まともに見られないのに、ずっと見ていたい。
直視できないのに目を反らさずに見つめていたくて、ルカは悶えた。
「……綺麗すぎる……!」
「そうか?」
アレクシアは少し恥ずかしそうに、小首をかしげた。
彼女が着ているドレスは、ルカが城の者たち相手に熱くプレゼンした結果、実現したもの。いわば「ぼくのかんがえたさいきょうのどれす」だ。
脳内の妄想通り、いやそれ以上にアレクシアによく似合っていて、大満足である。
(デザイナーさんお針子さん仕立て屋さんさすがです! ありがとうございます!!)
ルカは関係者各位に感謝を捧げた。
さすがは敏腕執事のエヴァルトが手配してくれた人選なだけはある。
全身を執拗に採寸されまくった時は思わず震えてしまったけれど、腕は確かだった。
「ルカもよく似合っている。素敵だ」
さらっと言われて、ルカは昇天しそうになる。
行こう、とアレクシアはルカの腕を取った。
「──出陣だ」
***
「ナターリア・ハンナ・クレーフェ伯爵令嬢と、婚約者のマティアス・アウグスト・ヴァルテン男爵令息のご入場です!」
よく通る声に呼名されて、ナターリアはかたわらのマティアスを見上げた。
「……行きましょう」
「……ああ」
最近は結婚に関する意見の相違からぎくしゃくとしていた二人だったが、今日ばかりは円満をアピールしなければならない。
腕を組み、足並みをそろえ、示し合わせたように作り笑顔を浮かべて、開かれた扉の向こう──宮廷の大広間へと歩を進める。
柔らかなシフォン素材を使ったティアード状のパーティードレスは、この日のために仕立てた特注品だ。
ナターリアが可憐なフューシャピンクのスカートを軽くつまんで歩けば、まるで花が開いたように引き裾がふくらんで、ふわりと広がる。
「まぁ、クレーフェ伯爵令嬢のドレスの愛らしいこと!」
「いつ見てもお似合いのお二人ね」
称賛の声を浴びて、ナターリアは沈みがちだった心が浮き立つのを感じた。
こういう時だけは、マティアスが婚約者で良かった、と思う。ハンサムで背の高いマティアスは、きらびやかな宴の場ではとても見栄えがするのだ。
彼と並んで、念入りにドレスアップした清純可憐なナターリアが入場すると、いつも場の注目を一身に集め、矢継ぎ早に賛美の言葉が浴びせられる。
周囲を見渡しても、自分たちほど華のあるカップルは他にいなかった。
ナターリアは鼻を高くして、さらに親密に見えるように、マティアスの腕に頭をもたれた。
(……いつ来ても、素敵な場所……)
大広間の高い天井は半円形を描いていた。ゆるやかなアーチが交差する頂点には、国王の紋章が彫られている。
金鎖で吊り下げられた巨大なシャンデリアは、王冠の形を模している。壁には螺鈿をふんだんに使った繊細な漆喰細工が彫り込まれ、飾り燭台の火が揺らめきながらあかりを落とすたびに、大理石の床がまるで星をちりばめたかのように輝いた。
ナターリアはしばし憂いを忘れて、夢のように美しい絢爛華麗な宮廷の宴をうっとりとながめた。
(なんて美しいパーティーなのかしら……)
陶然とするナターリアの耳に、とある伯爵夫妻の入場を知らせる声が聴こえた。
一般的に王宮で開かれる舞踏会には、身分の高い者ほど後から登場するという暗黙のルールがある。
つまり身分が低い者ほど早くに入場するということになるが、夫婦ではない相手をパートナーにして参加する場合は、男女関係なくより高い方の地位が適用される。
ナターリアは今は伯爵家の人間として、男爵家の後から入場しているが、今後マティアスの妻として男爵令息夫人になった場合は、もっと早くに呼名されることになる。
そう思うと、せっかくはずんだ心が再びしぼんでいく。
ナターリアは生まれた時からこの地位を約束されていたのに、どうして結婚によって順位を落とさなくてならないのだろう。
気落ちしながら背後を振り仰ぐと、腕を組んでいたはずの婚約者がいつの間にか消えていた。
焦って見回すと、マティアスは若い令嬢たちに囲まれてにやにやと鼻の下を伸ばしている。
ナターリアは整えた巻き髪を逆立たせた。
「マティ!」
***
家格の順にのっとり、参列者たちの名が次々に呼ばれていく。
紹介された貴族たちは優雅に一礼し、互いのパートナーと手を取り合いながら、意気揚々と歩を進める。
思い思いに着飾った貴人たちの、雅やかな装いに彩られて、壮麗な大広間はいっそう盛大なにぎわいを見せていた。
「……」
入場を目前に控えたルカは、今さらながら大きな不安に駆られていた。
ここは一年前、ルカが婚約破棄された場所だ。
実の弟に陥れられ、将来を誓った婚約者に手ひどく振られ、取り囲む貴族たちによってたかって嘲笑された過去が、まざまざとよみがえってくる。
(……アレクシア様に恥をかかせるようなことになったら……僕は……)
ルカはかまわないのだ。私生児として育ってきたから、人に蔑まれることには慣れている。今さら誰に何と言われようとどうでもいい。
でも、こんな自分をパートナーにしたことで、アレクシアが嘲られるのは耐えられない。
みじめな負け犬のルカを伴っていることで、アレクシアまでが卑しい出来損ないの連れだと、そう鼻で笑われることは我慢ができなかった。
かりそめでもアレクシアの婚約者になれたことが嬉しくて、今まで考えなしに浮かれていたけれど、王国中で一番の大舞台を前にして、頭が急速に冷えてきた。
「緊張するか?」
「はい……」
尋ねられて、ルカはうなずいた。
アレクシアは落ち着いた様子だった。社交界はほとんど参加したことがないはずなのに、焦りや緊張は見られない。まるで戦に臨む直前のように、静かに凪いでいる。
この美しい人が、ルカのせいで貶められることだけは絶対に嫌だ。
嫌で、怖くて、表情を固くしたルカに、アレクシアはそっと笑いかけると、
「大丈夫だ。ルカ」
──心配するな、と優しくささやいた。
「人が私を何と呼ぼうと、気にしたことはない」
評判などこれ以上下がりようもないしな──と笑うアレクシアが男前すぎて、ルカは両手で顔を覆った。
(……好きいぃぃ……!)




