第52話 ナターリアとローゼリンデ
マティアスは不機嫌に席を立ち、予定よりも早くに帰ってしまった。
ナターリアはロマンティックな天蓋が揺れるベッドに身を投げ、白いフリルのついた枕に顔をうずめて嘆いた。
「マティアスったらひどいわ……!」
自分は騙されたのだ。マティアスがこんなに頼りなくて、母親の言いなりな人だとは思わなかった。
「……ルカ……」
マティアスに幻滅するたびに、元婚約者のことを思い出す。
ルカは優しかった。ナターリアがどんなわがままを言っても怒ったことはない。いつもにこにこ笑って、忍耐強くなだめてくれた。
長い一生を共に過ごすのは、ルカのように温和で誠実な相手が良かったのかもしれない。
ルカはずっと自分を想ってくれている──とナターリアは確信している。
彼は他の女に目移りしたりしない。本当に一途で心優しい人だったのだから。
ルカがあっさりと婚約破棄を受け入れたのも、ナターリアの幸福を願って身を引いただけだ。ナターリアが望めば、彼は必ず戻ってきてくれる。
(でも……もう婚約破棄はできない……)
──まだ引き返せる、と父は言っていた。
だがマティアスとナターリアは王宮のパーティーで婚約を宣言したのだ。
目撃者は大勢いるのに、今さら撤回などできるはずがない。
あれほど周囲から華々しく祝福された婚約を取り消すなんて、ナターリアのプライドが許さない。
「ルカ……私、どうしたら……!」
ナターリアがもう一度、枕に突っ伏した時だった。
「ナターリアお姉さま」
小さな手がためらいがちにドアをノックして、ナターリアは枕から顔を上げた。
「お姉さま、入ってもいい?」
「ローゼ……」
開いた扉から半分だけ顔を出して、おずおずとこちらをうかがっている幼い少女はローゼリンデ・ハンナ・クレーフェだった。クレーフェ伯爵の次女で、ナターリアの妹だ。
「ねぇお姉さま。ルカさまは次いついらっしゃるの?」
「えっ?」
「ルカさまに会いたい。いつまたお姉さまに会いに来てくださるの?」
「言ったでしょう、ローゼ。ルカとは婚約破棄したの。もう私たちは他人なのよ」
「どうして? どうしてそんなことしたの?」
ローゼリンデは涙ぐみながら、ナターリアと同じストロベリーブロンドの頭を振った。
父であるクレーフェ伯爵は二年ほど前から傾き出した事業の穴埋めのために忙しく、母の伯爵夫人もそんな夫の様子に焦るばかりで、幼いローゼリンデの世話はメイドに任せきりだった。
そうでなくても母は以前から、伯爵家の跡継ぎであるナターリアの教育にばかり熱心で、年の離れたローゼリンデのことはほとんど構ってくれなかったのだ。
寂しさを募らせていたローゼリンデに優しくしてくれた初めての人が、ナターリアの婚約者に内定したルカだった。
最初は印象が悪かった。成金で有名なヴァルテン家の長男だと聞いていたし、クレーフェ伯爵が損失の補填のため、金目当てで選んだと噂の相手だったから、どんなに傲慢で鼻持ちならない男なのかと、幼いなりにローゼリンデも警戒していたのだ。
それなのに、紹介されたルカは全然違った。
ハニーブロンドの似合う優しい笑顔。男の人だけれど威圧感のない、可愛いとすら感じるような顔立ち。
ルカは初めて出会った時からローゼリンデの背丈に合わせて身をかがめ、まるで小さな淑女のように丁寧に扱ってくれた。
「ルカさまといっしょにお庭に薔薇を植えたの。次に来た時にまたお世話をしようって、言っていたのに……」
ローゼリンデの名前は″薔薇"と"菩提樹"の意味だから、と植物の苗を育てることを提案したのはルカだった。
二人で植物図鑑を読むのも楽しかった。薔薇とひと口に言っても数えきれないほどたくさんの種類があることに驚いて、夢中で図鑑をめくった。
ローゼリンデが気に入った品種を選び、許可を得て苗を取り寄せて、一緒にクレーフェ邸の庭園に植えた。
ルカは花の世話がとても上手だった。ヴァルテン家の庭師から教わったのだと笑って、器用に枝を詰めたり、棘を切ったり、肥料の配分を工夫したりしていた。
ローゼリンデは小さな花畑に毎日水をやり、大切に見守った。
苗木が成長して、葉を茂らせて、蕾をつけていく様子に胸がわくわくした。
最初の花が開いたタイミングで、ちょうどルカがクレーフェ邸に訪ねてきてくれて、一緒に観察することができたのがとても嬉しかった。
ルカがナターリアと結婚したら、毎年少しずつローゼリンデの薔薇園を大きくしていこうと約束したのだ。
それなのに、ルカはもう来てくれない。
姉のナターリアとルカはもう婚約者ではなくなったのだという。
姉の方から婚約を解消し、ルカの弟のマティアスと改めて婚約することにしたのだという。
同じヴァルテン家の令息だから受けられる援助も変わらないし、庶子のルカよりも嫡子のマティアスの方が良縁だろう──と姉は言ったが、ローゼリンデはそうは思えなかった。
「ルカさまがよかったの! ルカさまにお兄さまになってほしかった!」
「……」
ナターリアは返答に窮した。
先ほど自分でも同じことを思っていただけに、妹から言われるのは耳が痛い。
「もう一度、ルカさまと婚約して! お姉さま、おねがい!」
「ローゼ。わがままを言わないでちょうだい」
痛む頭を押さえて、ナターリアはローゼリンデをなだめた。幼い妹に同調するのはなんだか悔しく感じられて、無理にでもマティアスの良いところを挙げる。
「マティアスはハンサムだし、ルカよりも背が高くて男らしいでしょう?」
「……マティアスさま、きらい……」
ローゼリンデはしょんぼりとうつむいた。
先ほど薔薇の様子を見に、庭園に行った時のことだ。
ひと気のない奥まった一角で、ローゼリンデは目撃してしまったのだ。
冬枯れの中にも新芽が萌そうとしている庭の隅。高い木立の陰に隠れて、男女が抱き合っていた。
人目を忍んでの逢い引きだろうか。ひそひそと何かをささやき合っている。
『……いいのですか?』
くすくすと笑う声で、女の方が誰なのかはすぐにわかった。ローゼリンデ付きのメイドだったからだ。
そのメイドは、後継ぎでもないローゼリンデの担当になるなんてハズレ人事だとよくぼやいていて、いつも仕事をさぼってばかりいたから、今日もそうなのだろう──とあきれた時だった。
ローゼリンデははっとして、目を疑った。
(えっ? マティアス様? どうしてここにいるの……?)
風に揺れる枝の間に見えた顔は、姉の新しい婚約者だった。
先ほど姉の元を訪ねてきたはずの彼が、なぜか人目を避けるようにして庭園に隠れていることに、ローゼリンデはとまどう。
『こんなこと、ナターリア様に悪いですわ』
メイドが楽しげにささやく。口では悪いと言いながらもまったく悪びれない、優越感がにじむ声だった。
『大丈夫。黙っていればわからないよ』
マティアスの声にも愉悦が満ちていた。メイドの尻を撫でていた彼の手が、すっと胸の位置まで上がってくる。
『二人だけの秘密だ。いいだろう?』
二人はさらにきつく抱き合う。メイド服がはだけて、豊満な双丘が今にも見えそうだ。
いたたまれなくて、ローゼリンデは目と耳をふさいだ。
(……!)
ルカとは違って軽薄そうなマティアスのことが、ローゼリンデはなんとなく苦手だった。
それでもナターリアが選んだのだからと、ルカを慕う気持ちに蓋をして、マティアスを義兄として受け入れようと我慢していた。
でもわかってしまった。軽薄そう、なんかじゃない。この人は軽薄そのものだ。
そのまま後ろを振り返らずに、ローゼリンデは屋敷まで駆け戻った。
こんなこと姉には言えないと思ったけれど、一人で抱えているのも苦しかった。
気がついた時にはもう、姉の部屋の前に来ていた。
庭で目撃したことを洗いざらい打ち明けてしまいたかったけれど、姉の顔を見たら心が揺らいだ。
ただもっと幼い子供みたいに、いやいやと首を振ることしかできなかった。
「いやなの! あの人とは結婚しないで、お姉さま!」
「聞き分けのないことを言わないで! ローゼみたいな子供に何がわかるの!」
思わずナターリアが叱りつけると、ローゼリンデはしくしくと泣き出した。
「ローゼリンデ? どうしたの?」
泣き声を聞きつけてやってきたのは、二人の母でクレーフェ伯爵夫人のハンナだった。
「ナターリア。妹を泣かせるなんて、それが淑女のすることなの?」
「……お母様」
たしなめられたナターリアの目に、うるうると涙がにじんだ。
「お母様、私……私……」
「可哀相に……」
ハンナはナターリアの悩みと迷いを察したようだった。ベッドサイドに腰かけると、娘を慰めるようにそっと肩に触れた。
「ナターリア。結婚前に抱いた違和感は、結婚後には見過ごせないほど大きな溝になるものよ」
物憂げなため息をついて、ハンナはしみじみと語った。
「令息が男爵夫人からあなたを守ってくれないのならば、結婚は見送った方がいいのかもしれないわ……」
ハンナの言葉には、後継ぎとして教育してきたナターリアを嫁に出すだけでも不本意なのに、あんな強烈な義母のいる婚家でみすみす苦労させたくない、という母心がにじんでいた。
母の思いはナターリアにもよくわかる。とはいえ、再び婚約破棄に踏み切るのもためらわれた。
初回はいざ知らず、二度目の婚約破棄ともなると、世間はナターリアを兄から弟に乗り換えた上にどちらとも結ばれなかった見る目のない女として、噂の餌食にすることだろう。
哀れだのふしだらだのと後ろ指をさされたら、社交界では生きていけない。傷物の令嬢として、新たな結婚相手を見つけることも難しくなってしまう。
「私が何をしたっていうの……」
ナターリアはさめざめと嘆いた。
「酷いわ! 私は何も悪くないのに、どうしてこんな目に遭うの……!?」




