第51話 マティアスとナターリア
マティアスとナターリア。
婚約破棄と再婚約とを同時に行った王宮のパーティーの日、若い二人は幸福の絶頂にあった。
暗雲が立ちこめ始めたのは、マティアスが両親を伴って、クレーフェ家の邸宅を訪れた時だった。
ルカとの婚約を正式に解消し、マティアスと婚約を結び直すためには、公的な書類の作成が必要になる。その取り決めのための場を、ヴァルテン家との間に設けたのだ。
以前ルカとの間で同じ手続きを行った時は、父であるヴァルテン男爵アウグストは話し合いに同席したものの、男爵夫人ヘルミーネは不在だった。
名目上は体調不良を理由にしていたが、男爵夫人が血のつながらないルカのために時間も労力も割く気がないことは、誰の目にも明らかだった。
だが、今回はマティアスの婚約だ。実母である男爵夫人は意気軒高として場に臨んだ。
ナターリアは男爵夫人とパーティーなどで顔を合わせたことはあるが、長く言葉をかわすのは初めてだ。直に対面した印象は、正直に言えば、派手、だった。
最高級のシルクサテンの生地を何枚も重ねた豪華な衣装。両手の指にいくつも指輪が嵌められ、すべてが大粒の宝石を象嵌している。厚く塗った白粉も、真っ赤な口紅も一流品なのだが、コーディネートに引き算がなさ過ぎて、圧迫感さえ感じる。
マティアスも同じ傾向があるが、服も髪も宝飾品も、装いのすべてが足し算なのだ。上等の品ばかりでそろえているのがかえって圧が強く、息苦しい。
さらに違和感を覚えたのは、身勝手な主張を強引に押しつけてくる男爵夫人に対して、マティアスが何も自分の意見を言おうとしないことだ。
ヴァルテン家側で発言するのはもっぱら夫人ばかり。当事者であるマティアスは借りてきた猫のように、唯々諾々と母親に従っているだけなのだ。
婚約者ならばどんな時でも盾となってナターリアを守り、親よりも大事にしてくれるべきだ。
それなのにどうしてマティアスはてんで頼りにならないのだろう。
男爵夫人はクレーフェ伯爵の求める結婚の条件──入り婿として伯爵家に来ること──を頑として聞き入れない。
夫人も相当に頑迷だが、マティアスもどうして間に立ってくれないのか。
愛していたハンサムな恋人が、母親に逆らえない非力な子供に見えてきて、ナターリアは百年の恋も冷めていくのを感じた。
紛糾した両家の話し合いは、ヴァルテン男爵家がルカの時の何倍にもなる法外な支度金と莫大な援助とを約束したことで、ナターリアが男爵家に嫁ぐ方向で決着した。
クレーフェ伯爵家側としては札束で顔を叩かれて、意向を曲げさせられた形になる。
ナターリアも納得してはいなかったが、父のクレーフェ伯爵はナターリア以上に不本意なようだった。
「……よく考えなさい。ナターリア。今ならまだ引き返せる」
男爵家の三人が屋敷を去ってから。
ぐったりと疲れきった様子で、クレーフェ伯爵は娘に言った。
ナターリアが父に「ルカは長男であることを理由にずっとマティアスを虐げていた」という話を伝えた直後のことだった。
伯爵は鼻で笑い、はっきりとかぶりを振った。
「ミドルネームも与えられないほど不当に扱われてきたルカ君が? あの我の強い男爵夫人が過保護に溺愛している“一人息子”を? いったいどうやって虐げる方法があるというのだ?」
「そ、それは……」
「あの家で虐げられていたのは誰なのか、言うまでもないだろう」
「そんな……私は騙されていたのですか?」
ナターリアは愕然とした。
だが男爵夫人と初めてじっくりと会話して、よくわかった気がした。
あの高圧的な夫人が目を光らせている家で、ルカがマティアスを害することなどできっこない。
「ナターリア。他人事ではないぞ」
「えっ?」
「血がつながらないからと夫の子を虐げるような女主人のいる家に嫁いで、どうして自分だけは安全でいられると思える? おまえも男爵夫人と血のつながらない母娘になるということなのだぞ。幸福な結婚生活を送れると、本当にそう思うのか?」
「それは……でも、私は伯爵令嬢です。男爵夫人もルカのことは粗略に扱ったとしても、私のことは決して……」
「男爵夫人も元はシェンバッハ伯爵令嬢だった。嫁ぐ前の家格は同じ、嫁いだ後は姑と嫁になるというのなら、上下関係がどうなるかは明らかだろう」
「……そんな」
「ナターリア、よく考えなさい。ルカ君は出自に難があると承知していながら、なぜ私が婚約を承知したのか」
クレーフェ伯爵は心底疲弊した様子でソファーに身を沈めながら、くすんだ白髪を押さえた。
「あの男爵夫人の血を引く息子を選ぶくらいなら、私生児の方がずっとましだ」
そして今。ナターリアは白いハンカチをにぎりしめて、機嫌うかがいにとやって来た婚約者に詰め寄っている。
父の言葉はナターリアの心に、苦い澱のように重たく残り続けた。
この不安を払拭したくて、マティアスの顔を見るたびに、ナターリアはついつい問いただしてしまう。
彼の答えが煮え切らないものだから余計に気持ちに収まりがつかず、ヒートアップしてしまうことも少なくなかった。
「ルカは婿に入ると約束してくれたのに、どうしてあなたはしてくれないの? 私はこの家の後継者として育てられて……」
「……うるさいなぁ」
煩わしそうに言われて、ナターリアは目をぱちくりと瞬いた。うるさい?
「兄上は婿に入ると言ってくれた? 当たり前じゃないか。兄上は汚れた平民の血を引く私生児で、家督を継ぐことなどできないんだから。生粋の貴族である私が兄上のような卑しい真似ができるはずないだろう? 婿に行くなんてみっともないし、女性側の姓に変えるなんて男の沽券に関わるよ」
「みっともない……? 男の沽券……?」
男尊女卑の根強い貴族社会では、女当主は軽んじられる傾向がある。
女当主の婿になる男も、表面上は祝福されても裏では、情けないだの尻に敷かれているだのと嘲笑されることが多かった。
しかしマティアスはナターリアが伯爵家の後継ぎであることは承知の上で求愛したはずだ。
今さら男の沽券がどうのこうのと言い出すのは、ナターリアにとっては想定外でしかなかった。
「だったらどうして告白した時にそう言ってくれなかったの? あなたがそんな考えだって知っていたら私だって……」
マティアスは大げさなため息を吐いた。
「君は我が家に入るのがそんなに嫌なのか? 私を愛していると言ったのは噓だったんだ?」
「そういうことじゃ……」
「本当に愛しているのなら、相手に尽くしたいと思うのが普通だろう? たかが君が爵位を得るのをあきらめるくらいのこと、自分から進んで申し出るのが当然じゃないのか?」
「たかが……?」
──この人はいったい何を言っているんだろう。
ナターリアは目の前が真っ暗になるのを感じた。




