第49話 母の思い出
「ルカ。いつもお父様の昔話に付き合ってもらってすまないな」
「いいえ。僕も本当に楽しいです!」
ルカはふるふると首を振った。
先ほどニコラウスからも旦那様のお相手は気疲れしませんかと聞かれたし、他の者たちからも大変でしょうとねぎらわれることがあったが、ルカとしては本当にそうは思わない。
ヴィクトルとルイーゼ夫妻の思い出話は涙なくしては聞けない感動巨編だし、アレクシアの幼少期の話は垂涎ものすぎて、何度でも無限におかわりしたくなる。
「意外だな。お父様も普段は決して、誰にでもお母様のことを話すような方ではないのだが……」
ヴィクトルは亡きルイーゼを今でも大切に想っている。深く愛しているからこそ、軽はずみに他人にルイーゼのことを語ったりはしない人だった。惚気のようななれ初め話などなおさらだ。
そんな父がルカには意外なほど胸襟を開いているのが不思議だった。
ルカの屈託のない素直な表情や、人なつこいきらきらした瞳が父の心を溶かすのだろうか──とアレクシアは思案する。
「肖像画を拝見しただけですが、アレクシア様は辺境伯夫人に似ていらっしゃいますね」
「そうか? 私はよくブリギッタに嘆かれているが……」
──ルイーゼ様は淑女の鑑のようなお方でした、とはブリギッタ定番の説教の一つだ。
その後には決まって、それなのにどうしてお嬢様は……というぼやきが続く。
名門公爵家の令嬢として育ったルイーゼは、楚々とした温柔優雅な貴婦人だった。
ブリギッタとしてはアレクシアも母のような淑女に育てるべく心を砕いてきたはずなのに、どういうわけか山で熊を狩ってきて自分で解体するような令嬢に育ってしまったのだから、愚痴もこぼれるというものだ。
母の俤を思い浮かべながら、アレクシアは青色の瞳を眇めた。
「……お母様といえば、思い出す光景があるな。……あれは私が六つの頃だったが……」
アレクシアは物心つく前から、リートベルクの誇る剛腕の騎士たちに慣れ親しんで育った。
その日もいつものように、幼いアレクシアは騎士団の練武場に遊びに行ったのだ。
そこでは当時まだ下っ端の騎士だった若いニコラウスが、同輩の騎士たちと円卓を囲んでわいわい盛り上がっていた。聞けば、腕っぷしを比べあっていたのだという。
テーブルの対角に座り、それぞれ右腕を出してにぎりあう。相手の腕を押し倒して、手の甲を卓上に付けさせれば勝ちだ。
ニコラウスは次々と相手を負かし、順当に勝ち上がっていく。
幼いアレクシアは目を輝かせて、自分もやってみたい、とニコラウスにせがんだ。
「組み合って、思いきり手に力を込めた直後だ。ニコラウスの腕が勢いよく倒れた」
どっ、と笑いが起こった。
いくら何でも手加減しすぎだ、とニコラウスをからかう声もあれば、お嬢様はお強いですね、とあやすようにアレクシアを褒める声もあった。
にぎやかに盛り上がる笑い声の中で、ニコラウスだけが笑っていなかった。
ニコラウスは真顔で目玉を剥き、大きな手のひらをじっと見つめてから、
『お嬢様! もう一度、もう一度いいですか!?』
と、幼いアレクシアに向かって腕を突き出した。
「もう一度組み合った時だ。……ニコラウスが奇妙な顔をした。」
今度はニコラウスも手を抜かなかったらしい。アレクシアの何倍もある固くて厚い手は、懸命に力を入れてもなかなか倒れなかった。
それでもびくともしないというわけではない。アレクシアが力を込めるたびにニコラウスの拳がみしみしと揺れ、テーブルは今にも割れそうにぎしぎしと軋む。
なかなか決着のつかない硬直状態がしばらく続いた時だった。ニコラウスがおもむろに口を開いた。
『……お嬢様。行きましょう』
『えっ?』
ニコラウスはアレクシアを肩に乗せて騎士団の本営を飛び出ると、居館へと駆けた。
城門を通り、歩廊を走り抜け、たどり着いた辺境伯の執務室を扉が壊れるほど勢いよく開け放った。
『旦那様! お嬢様の腕力をご存知でしたか!?』
──何のことだ、と聞き返すヴィクトルに、ニコラウスは太い腕で机を叩いて迫った。
『いいからお嬢様と組み合ってみてください! 早く!』
促されてアレクシアの手を取ったヴィクトルは、すぐに先ほどのニコラウスとまったく同じ表情になった。
あれは幼児、ましてや女児の握力ではなかった──と今でもニコラウスは述懐している。
「……自分がどうやら父ゆずりの怪力らしいと知ったのはその時だ。それまでは誰かを倒そうと全力を出したことなどなかったので、気がつかなかった」
旦那様に似てしまったか……と恐れおののくニコラウス。
ルイーゼに似てほしかったのにいぃぃ、と愕然とするヴィクトル。
ざわつく大人たちの表情を見上げて、幼いアレクシアはきょとんと首をかしげた。
「私は父やニコラウスの驚く顔が不思議だったのだが、乳母のブリギッタはひどく動揺して、これでは嫁の貰い手がないと嘆いていた。でも……お母様は……」
『すごいわ! アレクシア!』
母のルイーゼは、誰よりも喜んでいた。
『ヴィクトル様に似たのね。素晴らしいわ!』
もともと体の弱かったルイーゼは、その頃には寝台に臥せって過ごす日の方が多くなっていた。
辺境伯夫人でありながら領民のために何もできていないと悲しみ、病がちな体質をしのびなく思っていたルイーゼは、アレクシアが自分とは違ってすこぶる健康で頑強な子供であることを、心から喜んでくれた。
その後、アレクシアは正式に剣術や弓術、乗馬を習い始めた。
普通の家ならば女子がたしなむ内容ではないが、母はもちろん賛成してくれたし、父も武門の家系たるリートベルクの長だからか反対はしなかった。娘も護身術くらいは身に付けておいて損はないと思ったのだろう。
しかし護身術などというレベルはあっという間に過ぎ去った。
アレクシアはまたたく間に天賦の才能を開花させ、晴れて騎士団にも、遊ぶためではなく鍛錬のために日参するようになった。
父や騎士たちの薫陶を受けて、すくすくと上達していくアレクシアを、ルイーゼはいつも満面の笑みで抱きしめ、手放しに褒めてくれた。
『あなたは私の自慢の娘よ。アレクシア』
残念ながらルイーゼはその年の冬を越すことはできずに亡くなってしまったのだが、あの頃の母の言葉と笑顔は、アレクシアの中に今でもはっきりと焼き付いている。
アレクシアは一般的な貴族の令嬢らしくはない。ブリギッタからも常々小言をもらうし、自分でも自覚はある。令嬢以前に女らしくすらないと思うほどだ。
粗野で乱暴な野蛮人だと、首都で好き放題に言われていることも知っている。
部下から熊だのゴリラだのさんざんに呼ばれていることも知っている。というか、つい先ほど呼ばれたばかりだ。
でも、あの時。
母は褒めてくれた。
素晴らしいと、自慢の娘だと言ってくれた。
だからアレクシアは悩まないし、自身を卑下することもしない。
母が肯定してくれた、自分は自分で良いのだと、そう揺るぎなく信じることができた。
もう母と過ごした時間よりも、母を失ってからの時間の方がずっと長くなってしまったのに。
宝物のような思い出は、少しも色あせることはない。
そこまで語ってから、アレクシアの顔がにわかに火照った。
「アレクシア様?」
心配そうにのぞきこんでくるルカのあどけない顔に、急速に恥ずかしさがこみあげてくる。
「……すまない」
「な、何がですか?」
「……余計なことを言った……」
ルカが人懐こい仔犬みたいな愛らしい瞳をしているせいだろうか。それとも警戒心を感じさせない無垢な雰囲気のせいだろうか。
自分でも驚くほど、亡き母の思い出を饒舌に語ってしまった。
心の中にはいつも大切にしまっていた記憶だけれど、誰かにこんな風に話したことなどなかったのに。
「私もお父様のことを言えないな……」
恥じ入る気持ちに重なって、より強く浮かんでくるのは後悔の念だった。
「……いや。もっと酷い。無神経なことを言った……」
ルカは生まれてすぐに実の母親を亡くした。
その後、継母になったのは傲慢で意地が悪いと評判の女性だった。
肉親の愛に恵まれなかったルカに向かって、自分が母に愛されていた話など、無神経にもほどがあるだろう。
アレクシアは己の軽率さを悔いたが、ルカはきょとんとしていた。
「え。そんなこと、全然……」
──全然思いません、とルカは蜂蜜色のかぶりを振る。
無神経だとか当てつけだなんて、少しも思わない。思うはずがない。
好きな人の大切な思い出を聞かせてもらえるなんて、幸せ以外の何物でもないのだが。
「異常なのは僕の生家の方です。おかしい方に合わせて、まともな側が遠慮する必要はありません」
「ルカ……」
「えっ?」
羞恥心に煽られて、アレクシアは壁際に手をつく。
気がついた時には、壁を背にしたルカを追いつめるような形になっていた。
(えええっ!?)
ルカは鼓動を早鐘のように鳴らして、耳まで赤く染めた。
(顔! 顔! 顔が近い……!)
アレクシアの顔が間近にある。彼女の腕に閉じ込められて、逃げ道をふさがれている。
心臓には悪いが、もっとやってほしい。ずっとこうしていてくださいお願いします。
「ルカといると……調子が狂う……」
アレクシアは恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。
何気ない瞬間の中にも、ルカの性根の賢さと、どんな不遇の中でも曇らなかった優しさを感じることがある。
なぜ無防備に心を開いてしまったのか、アレクシアは自分でもわからなかった。




