第46話 君は悪くない
外は厳寒の夜が吹雪いているが、暖炉に照らされた室内は暖かい。
暖炉にくべられた薪が炎を燻らせている。薪は林檎の木だった。ぱちぱちと爆ぜながら木片が燃えるたびに、心がほっと落ち着くようないい香りが立ちのぼった。
ルカがアレクシアの美しさや尊さや素晴らしさについて、胸に燃える熱い想いを無限に語っても、ヴィクトルは深くうなずきながら聞いてくれる。
聞いてくれるだけでなく、適宜「同感だ」とか「君は見る目がある」とか「実に慧眼だな」とか肯定的なコメントをくれる。
――なんて優しい方なんだろう、とルカはほっこりした。
同じ内容を騎士のユリウスやクラウスやマリウスに熱弁した時は「それってあなたの感想ですよね」と言われて終わったので、よりヴィクトルの優しさが心に沁みる。
親のような年代の男性とこんなに楽しく過ごすのは初めての経験で、ほろ酔いのルカは幸せそうにつぶやいた。
「僕は父と一度もこんな時間を持てなかったので、とても嬉しいです」
「ヴァルテン男爵と? 一度もか?」
「はい……恥ずかしながら……」
実の父であるアウグストとルカは、二人きりで語り合ったことなどなかった。思い出話はおろか、日常会話すらまれだったのだ。
こうして時間を忘れ、膝を付き合わせて、笑ったり泣いたりするなんて考えられなかった。
アウグストはずっと我が子に無関心な父親だったが、好意的に解釈すれば、自分が優しくすればルカに害が及ぶと考えたのもしれない。
ルカのことで少しでも注意しようとすれば継母のヘルミーネは逆上し、まともな会話などできないほど荒れ狂った。
ヘルミーネに立ち向かっても疲弊するだけで何も解決しないばかりか、激情に駆られた彼女が何をするかわからない怖さもあった。ヴァルテン家の恥となるようなスキャンダルすら起こしかねない。
もしも父が継母から守ってくれたとしても、良い方に転ぶとは限らなかった。
ヘルミーネの性格を考えれば、アウグストがルカの味方をすればするほど反発して、より悪い事態を引き起こした可能性も充分考えられる。
「それに……父は僕を恨んでいるのかもしれません……」
「男爵が? 君を?」
「僕が生まれたことで母は亡くなりました。だから父にとって僕は、愛した女性を殺したも同然なのかもしれません……」
アウグストと平民の娘との恋は、結果として娘の命を奪ってしまった。
ルカが生まれなければ母は死ぬことなく、生を全うできたのかもしれない。
「そして僕がいるから、父は満足な結婚ができなかったのかもしれません。僕がいなければ父はもっと自由に動けたはずです」
アウグストの心情はわからないが、ヘルミーネとの仲は見るからに冷えきっていた。おそらく誤った結婚をしてしまったと後悔しているのは確かだ。
アウグストは未婚の父になったことで焦り、うっかり厄介な妻を娶ってしまい、不幸な結婚生活を送るはめになった。
ルカがいなければ父は何の障害もなく、自分の人生を謳歌することができたのかもしれない。
母は若くしてこの世を去った。
父は不本意な結婚を余儀なくされ、虚ろな目をするようになった。
自分の存在が、両親をどちらも不幸にしてしまったのかもしれない──。
そこまで吐露してから、ルカははっとしてヴィクトルに向き直った。
「申し訳ありません、辺境伯。つまらない話をお聞かせして……」
「いいんだ、気にしなくていい」
そう言うヴィクトルは、目頭を押さえたまま顔を上げようとしない。
「あの……辺境伯? どこか具合でもお悪いのですか?」
「大丈夫だ。なんでもない」
ヴィクトルは片手を上げて答えたが、目元が潤んでいるようにも見えた。絶対大丈夫じゃないし、なんでもなくない。
頭でも痛むのだろうか──とルカが心配した時、ヴィクトルは毅然と顔を上げた。
「だがルカ君、それは違う。ヴァルテン男爵と男爵夫人のことは本人たちが向き合うべき問題であって、君には何の責任もない」
「辺境伯……」
「君は何も悪くない。君を守るのは父親である男爵の義務だ。たとえ焦燥に駆られての決断だったとしても、夫人との結婚を承諾したのは男爵本人の意志だ」
──もったいない、とヴィクトルは心の中でヴァルテン男爵に言わずにはいられなかった。
ルカの素直な気性や、明るい気立ての良さは、男爵の愛した女性から受け継いだものなのではないか。
ヴィクトルは最初の日こそルカを怪しんだが、今では思いのほか、一緒に過ごすこのひとときを楽しんでいる。
本当は実の父である男爵こそ、こうして息子と語らう時間を持つべきだったのではないか。
愛した相手の美徳をルカの中に見つけられたなら、男爵はどんなにか幸福だっただろう。
それなのに自らその機会を棒に振った男爵を、もったいない、と思わずにはいられない。
ルカの母が亡くなったことは気の毒だが、生まれてきた彼のせいでなどあるものか。
ルカは子供として守られるべきだった。男爵はその義務を怠ったのだ。
──君は悪くない、ともう一度、ヴィクトルははっきりとルカに言った。
「私に言わせれば男爵は薄情で、卑怯だ。君に償う責任こそあれ、君の方が物わかりよく父親を思いやってやる義理はない」
「ありがとうございます……」
ルカは今にも泣きそうな顔で、ヴィクトルに礼を言った。
「アレクシア様も同じように言ってくださいました」
「アレクシアが?」
「はい。……誰かが僕のために怒ってくれたのは、初めてでした」
先日の朝、酔いざましの散歩中。
払暁の光の中で、アレクシアは言っていた。
──男爵が自身の判断でルカを屋敷に引き取ったのだから、夫人が何と言おうと我が子を守り抜くのが父親としての責任だ──と。
思いがけない言葉に驚いたけれど、でも……とても嬉しかった。
誰かがルカのために父に怒ってくれたのは、生まれて初めてだったのだ。
「アレクシア様にも言いましたが……でも、僕はここに来られました」
実家に暮らしていた時。確かに悲しいことはたくさんあった。辛いことも、苦しいことも、惨めだとも思うことも数えきれなかった。
でも、ルカはここに来ることができた。
アレクシアに、ヴィクトルにも会うことができた。
「リートベルクの地に来られて、僕は幸せです」
率直な言葉に、ヴィクトルは再び目頭を押さえる。
「僕はこれからも誠心誠意、この城にお仕えしたいと思っています……」
いつもアレクシアに見惚れては、口癖のように好き好き大好きと言ってしまうが、あれは鳴き声のようなものだ。
無意識のうちに心の声が洩れ出てしまうのであって、アレクシアから愛を返してほしいと乞うているわけではない。
想いを捧げているからと言って、自分に報いてほしいと願っているわけではない。
……そう思っているのに、どうしてだろう。
ルカは決してアレクシアの夫になれる身分ではないと思うと、身を引き裂かれるような苦しさが襲う。
アレクシアはいずれ地位のある名家の貴公子と結婚するのだと、そう思うと、言い知れない痛みが刃となって、ルカの胸を突き刺した。




