第22話 男爵家と伯爵家
新しく淹れた茶が運ばれてきたが、ヘルミーネは手を付けなかった。
「まったく、腹ただしいったらないわ!」
ルカを追放した時はせいせいした。夫が平民とあやまちを犯して作った私生児をついに追い出すことができて、胸がすく思いがしたものだ。
しかし、勝利の余韻は長くは続かなかった。
ルカとナターリアの間に交わした婚約の誓約書を焼き捨て、あらためてマティアスとの婚約を結び直した時のことだ。
両家の話し合いは、序盤こそ和やかな時候のあいさつから始まったものの、すぐに暗礁に乗り上げた。
主張の食い違いはいくつもあったが、中でももっとも大きな争点となったのは、新郎新婦のどちらが相手の籍に入るか、という問題だった。
王国の現行法では、夫婦は同じ姓を名乗らなければならないと決まっている。
マティアスとナターリアが結婚するにあたっては、名乗る姓をヴァルテンかクレーフェか選ばなくてはならない。
さらに、爵位を継ぐことができるのは生家の姓を持つ者だけであるとも定められている。
つまり現時点であればナターリアはクレーフェ伯爵位を、マティアスはヴァルテン男爵位を継ぐ権利があるのだが、結婚して別姓に変わる場合は生家の継承権を放棄しなければならない。
マティアスがヴァルテン家を出て、クレーフェ女伯爵の夫となるか。
ナターリアがクレーフェ家を出て、ヴァルテン男爵の妻となるか。
二つに一つだ。夫婦でありながら、どちらも爵位を有する方法はない。
「……こちらの提示する条件は変わらない。先の婚約と同様だ」
淡々と告げたのは、ナターリアの父であるクレーフェ伯爵だった。
「新郎となるのが兄弟どちらであっても、我が家の婿に迎える。娘を男爵家に嫁がせることはしない」
伯爵家にはナターリアとまだ幼い妹の、二人の娘しかいない。
ナターリアは長女で跡を継ぐと決まっているのだから、夫には婿に入ってもらうのが結婚の条件だったはずだと、クレーフェ伯爵は権高に述べた。
「とんでもありませんわ!」
ヘルミーネは感情的に答えた。椅子から立ち上がるほど怒りながら、マティアスが伯爵家に婿入りすることを断固として拒む。
確かに以前、ルカとの婚約を取りつけた時は、婿にしたいという伯爵家の要望を快諾した。
マティアスの爵位継承を盤石にするためにも、めざわりなルカはさっさと追い出してしまいたかったからだ。ルカを厄介払いした上に、伯爵家との縁もできるのならば渡りに船だ。
だがマティアスは違う。あの子はヘルミーネの愛し子で、家から出すなどと考えたこともない。
「ルカならばいくらでもくれてやるけれど、可愛いマティアスを婿に出すなど、できるはずがないわ!」
クレーフェ伯爵は約束通りの条件締結を求め、ヘルミーネは頑として抵抗し、板挟みになった夫のアウグストは黙って渋面を作っていた。
一家の長らしくきっぱりと断ってくれればいいものを、本当に優柔不断で頼りない男だ、とヘルミーネは落胆する。
「いくら伯爵がお望みでも、それだけは叶えられません。マティアスは我が家の大事な一人息子なのですから!」
「一人息子か……」
クレーフェ伯爵は苦々しそうにつぶやいて、白くなった眉をひそめた。
早くもマティアスを「一人息子」と呼んではばからないヘルミーネの厚顔ぶりに、嫌悪感すら覚える。
伯爵は途中の会話の中で何度か、ルカはどうしているのかと尋ねたが、男爵夫妻からはあいまいな返事しか返ってこなかった。
すでにヴァルテン家にはいないのかと問いただしても、今どこにいるのかと切り込んでも、話をすり替えてまともに答えようとしない。
クレーフェ伯爵はしわの深くなった額に手をやった。
(……縁談が壊れたことを理由に追放したのか。男爵夫人が継子を冷遇していることは知っていたが……聞きしに勝るな……)
正式な婚約でも何でもない、未熟な若者二人の勝手な宣言を真に受けて、さっさとルカを追い出すとは薄情にも程がある。
伯爵はこれまでも、ルカはさぞかし苦労しているのだろうとは何度も察していたし、にも関わらず僻むことなくまっすぐに育った彼の気性を好ましく感じていた。
クレーフェ家の婿に迎えたあかつきには息子と思って可愛がろう、と楽しみにさえしていたのだ。あの純真な青年に義父と呼ばれる日を、伯爵はひそかに心待ちしていた。
「クレーフェ家にはまだ下にもうひとり令嬢もいるのだから、そちらに婿を取って跡を継がせればいいのではありませんか?」
ヘルミーネは厳然と言い放つ。
本人としては至極まっとうな主張のつもりだったのだが、クレーフェ伯爵の方は話が違うと納得しなかった。次女はまだ幼い子供だ。後継者教育も授けてはいない。
クレーフェ伯爵は静かな怒りをたたえて、ヘルミーネを睨んだ。
「……我が家に次女がいるというのなら、そちらにも長男がいるのでは?」
「何ですって!?」
ルカの存在を匂わされたヘルミーネは、反射的に声を荒げる。
余りの無礼さにアウグストが制止しようとしたが、ヘルミーネは夫の手を振り払った。
「ルカ君は男爵の血を引く長男。爵位を継承する権利はあるはずだ」
「とんでもない! あの子は卑しい私生児ですわ!」
「現在のノルトハイム侯爵も私生児として生まれた方だ。卑しいという今の言葉、侯爵の前でも同じことが言えるのかね?」
有名な侯爵の名前を出されて、ヘルミーネは答えに窮した。
現ノルトハイム侯爵は先代侯爵と平民の女性との間に生まれた庶子だったが、父の正妻に育てられて侯爵位を継いだ。明晰な頭脳と卓越した経営手腕で広く知られ、社交界でもたびたび話題にのぼる時の人でもある。
「子のなかった先代のノルトハイム侯爵夫人が寛大な女性だったこともあるが……。庶子であっても侯爵家の当主になった前例があるのに、まさか男爵家の当主にはなれないとでも?」
クレーフェ伯爵は言外に、寛大な侯爵夫人に対してヘルミーネが狭量だと皮肉っている。
ヘルミーネは額の青すじを増やしていら立ち、伯爵は一歩も譲らぬ構えで腕を組み直した。
「ナターリアとの結婚は認めよう。だが、婿殿には我が家に入っていただくのが条件だ。ヴァルテン家はルカ君が継げばいい」
「冗談ではないわ!」
「長子が後継となるのは何もおかしなことではない。私は何も無理は言っていないつもりだか?」
ヘルミーネは怒りのあまり、ぶるぶると震える。
めでたい祝い事のために設けられた席はすっかり険悪な色に染まり、一触即発の様相を呈していた。
クレーフェ伯爵家とヴァルテン男爵家。両家の話し合いは紛糾に紛糾を重ね、難航に難航をたどった。
何度か破断寸前にまでなりかけたが、最終的にはナターリアがヴァルテン男爵家に嫁ぐことで話がまとまった。
男爵家側が相場よりもはるかに高額の支度金を包み、さらに伯爵家に対して破格の経済援助をすると約束することで、何とか合意に持ち込んだのだ。
そもそもクレーフェ伯爵家がルカを選んだのは、手がけている事業の不振に悩み、ヴァルテン家からの経済支援を見込んで決めたこと。
足元を見たといえば聞こえは悪いが、伯爵がヴァルテン家との縁談に期待していたであろう持参金を法外なほどに上乗せすることで、話に折り合いをつけたのだ。
折り合いをつけた……はずなのだけれど、不満そうにふてくされるナターリアの憎たらしい顔つきを、ヘルミーネは忘れられない。
「なんてわがままな、生意気な小娘なの!」
マティアスはルカとは違うのだ。マティアスのような特別優れた貴公子と結婚できるなんて、身に余る幸福だと、あの小娘はちゃんとわかっているのだろうか。
マティアスの妻になるのなら分をわきまえて、自分が嫁ぐくらいの些細な妥協は喜んでするべきだ。
家の家格など関係なく妻は夫を立て、夫の両親を自分の両親よりも大切にし、婚家の意向に口答えなどしない貞淑な妻になるべきだ。
ヘルミーネは腹立ちまぎれに服飾担当のメイドを呼びつけると、衣装部屋の一つを開けさせた。
「あら?」
豪華なドレスが数えきれないほど並ぶ片隅に、一本の扇が落ちていた。
流行遅れのデザインに、古くなって黄ばんだタッセル。先代の男爵夫人が使っていたものだ。
「いやだわ。お義母様の扇じゃない。まだ残っていたなんて……」
ヘルミーネは生前の義母から特につらく当たられたわけではない。
だが姑という存在はいるだけで不愉快なものと決まっているし、何よりも義母がルカを可愛く思っている様子なのが気に入らなかった。
──下賎な庶子に目をかけるなんて、本当に困った年寄りだった。孫を慈しみたいならマティアスだけを愛で、好きなだけ物を貢げばよかったものを。
夫の両親を立てろと言ったばかりの口で、ヘルミーネは義母に毒づくと、扇をへし折って投げ捨てた。




