第21話 腹筋が…割れてきた…!
毎日毎日飽きもせずにアレクシアに見とれながらも、ルカは日課となった鍛錬に励み、数々のトレーニングをこなしていった。
腹筋に背筋、懸垂に腕立て、地獄のような走り込みに、無限に続く剣の素振り。
時間の許す限りニコラウスたちに稽古をつけてもらい、ユリウスやクラウスやマリウスたちともかわるがわる剣術の修業を積むこと、約二か月。
身体に明らかに変化が生じてきて、ルカは身震いした。
「……腹筋が……割れてきた……!」
おそるおそる持ち上げた服の内側。
ついこの前まで薄っぺらかった腹筋が、くっきりと四つに割れている。
「毎日お腹いっぱい食べてるからかな……?」
ヴァルテン男爵家で暮らしていた時は、家族と同じものを食べることは許されなかった。
継母のヘルミーネは美食を好み、金にあかせていつも高級な食材を調達させていたけれど、もっとも美味で栄養価の高い部位は彼女と父、弟のためだけに供され、たとえ余ったとしてもルカに下げ渡されることはなかった。
それでも使用人たちと同じ食事は摂れていたし、極端に飢えていたわけではない。
使用人たちに仕事を習ってはこまごまと働いていたから、運動量が少なかったわけでもないはずだ。
しかしヴァルテン家にいた頃のルカはずっと痩せていて、ろくに筋力もつかず、身長も思うように伸びなかった。
それなのに、リートベルクに来て二ヶ月。
たったの二ヶ月だというのに、驚くほど身体つきが変わってきた。
動けば動いた分だけ体力がつき、鍛えれば鍛えた分だけ筋肉がつく。
成長期は過ぎたはずなのに今さら身長が伸びてきて、明らかに視界の高さが変わった。胸回りや胴回りは一回り大きくなりつつ、堅く引き締まってきている。
まるで体が芯から生まれ変わるみたいに、急激すぎる成長を遂げていた。
思い当たるふしはあった。
この地に来てからというもの、ルカは生まれて初めてのびのびと呼吸ができているのだ。
実家では継母のヘルミーネが女王のように君臨していた。ルカは継母に嫌われ、疎まれ、常に頭ごなしに押さえつけられ、息をひそめて過ごしてきた。
だが、ここでは誰もルカを理不尽に怒鳴ったり殴ったりしない。
ルカに優しくしたせいで、誰かが責められたりクビになったり追い出されたりもしない。
毎日あたたかい人々に囲まれ、気のいい騎士たちに揉まれて、楽しく笑って過ごしている。
空気もきれい。
食事もうまい。
人も優しい。
怒号も飛んでこない。
暴力もふるわれない。
要するに、ストレスがなくなったのだ。
ルカを縛りつけていた圧迫感や閉塞感から解放された結果、まるで摂った栄養がまともに吸収される体質に変わったような気がした。
細胞の一つ一つが喜んで、活性化して、今まで停滞していた分をすべて取り返すくらいに生き生きと成長している、そんな気さえした。
そして一番の栄養はもちろん、彼女だ。
焦がれてやまない、想い人。俗な言葉で言えば、推し。
城の内外でアレクシアを見かけるたびに、ルカは手を祈りの形に組んで拝み、神に感謝を捧げる生活を送っていた。
(健康に……いい……!)
好きな人のいる場所で生きられるというのは、なんて素晴らしいことなんだろう。
痩せた不毛な土地では満足に育たない種や苗も、豊かで肥沃な土地に植えかえれば、すくすくと伸びることがある。
ルカにとってリートベルクの地は、まさに豊沃な新天地だった。
まさしく、住めば都。否、王都よりもこちらの方がずっといい。
楽園のような環境で、太陽のような恋の恵みを燦々と浴びながら、ルカは人生を謳歌した。
「最高……! 夢みたいだ!」
***
「最低よ! 悪夢だわ!」
白磁のティーカップがヘルミーネの手を離れた。
ソーサーごと宙を舞ったカップは、ガシャン、と音を立てて粉々に割れる。
「お、奥様……?」
茶を運んできたメイドはおどおどとおびえながら、必死にヘルミーネの顔色をうかがった。
「何なの、このぬるいお茶は!? こんなもの不味くて飲めるわけがないでしょう! 早く淹れ直しなさい!」
「も、申し訳ありません! 奥様!」
若いメイドは何度も平謝りする。震える手で陶器の破片を拾い集め、茶のこぼれた絨毯を懸命に拭いた。
少しでも染みが残ればまた恫喝されるのは目に見えている。ぶるぶると震える半泣きの顔に向けて、さらにヘルミーネの怒号が飛んだ。
「淹れ直しなさいと言っているでしょう! 何をぐずぐずしているの!」
ヴァルテン家のメイドたちは身をひそめ、息までひそめてささやきあった。
「……奥様はまた荒れているのかい?」
ヘルミーネの癇癪は突然だった。先刻まで普通にしていたかと思えば急に火が付いたかのように怒り出す。どんな些細なことでも難癖をつけて、相手が泣こうと謝ろうと収まらない。
標的となる使用人たちにとっては災難そのもので、ただ嵐のように通り過ぎるのを待つしかなかった。
「ルカ様が出ていった当初は、奥様のご機嫌もすこぶる良かったのにねぇ……」
「奥様はずっとルカ様を目の敵にしていらしたからなぁ……」
ヘルミーネは夫の長男でありながら自分とは血のつながりのないルカのことを忌み嫌っていた。
対外的には私生児を受け入れる心の広い正妻を演じていたものの、少しでもヴァルテン家の内情を知る者ならば誰でも、ヘルミーネが実子であるマティアスだけを偏愛し、ルカを冷遇してきたことを知っている。
心ある使用人たちはみんなルカに同情し、水面下で交流を図ってきたものだった。
素直で器用なルカは、シェフの調理技術も、庭師の造園のコツも、馬の世話もひととおりの家事仕事も何でもすぐに身につけた。
ただ可哀相な薄幸の令息というだけではない。自分たちの職務を見下すことなく、自らすすんで習得してくれるルカは、使用人たちにとって密かな癒しでもあったのだ。
だからルカが男爵家を追放された時は、誰もがやるせない思いでいっぱいだった。
この家における唯一の良心だった、素直で心優しくてけなげな令息。ルカが気の毒で、胸がつぶれるほど無念でならなかった。
同時に、これでようやくヘルミーネも角を収め、落ち着いてくれるのではないかと期待していた。
実際、ルカが出ていった直後のヘルミーネはすこぶる上機嫌だった。
しかし、歯車はすぐに上手く回らなくなった。
これまでは目の上のこぶだったルカがいたことで、ぶつける標的があった男爵夫人の鬱憤は、ルカがいなくなって矛先を見失ってしまった。
今やヘルミーネがルカがいた頃と同様か、それ以上に激しいいらだちをにじませることがしばしばある。
犠牲となるのは主に使用人たちだったが、夫のアウグストや、溺愛している息子のマティアスにすら矛先が向かうこともあった。新たな悩みの要因が、愛息子の結婚にあるからだ。
「マティアス様の婚約者がずいぶんとわがままなお嬢様らしいよ。うちの奥様相手にも主張を曲げない方だとか」
「そりゃあすごい。まぁ伯爵家のご令嬢だものね。男爵夫人に譲る義理はないとお思いなのかもね」
「ルカ様との婚約に横槍を入れてまで奪ったお嬢様なのになぁ……上手くいかないもんだねぇ……」




