第150話 初めての朝
「もう一度、見せてくれ」
「え……」
ルカは一瞬とまどったが、すぐに言われた通り服の襟に手をかけた。
軽い音を立てて、夜着が肌をすべり落ちる。ルカの見た目は細身なのに、あらわになった体躯は筋肉質だった。
鎖骨の下、よく鍛えられていると一目でわかる胸筋と割れた腹筋に挟まれて、その傷は広がっていた。
痛々しい焼痂だった。黒に近い赤紫色の痕が、まだらな模様になって残っている。
皮膚は裂け、肉まで焦げたのだろう。爛れた焼け痕はもう壊死していて、感覚を失っていることが見て取れた。
「……以前も思ったが……これは酷いな……」
酷い、と言ったアレクシアの形容に、ルカの胸は痛んだ。
誰よりも美しいアレクシアの目に、醜い傷痕を触れさせたくなかった。
「何歳だった?」
「えっ?」
「新しい傷には見えない。十年以上は経っているはずだ。この火傷を負った時、ルカは何歳だったんだ?」
「九歳……かな」
「エミールと同じ年だな。まだ子供だ」
エミールと同じ、と言われれば確かにそうだ。
今のエミールがこんな深手を負うことを考えたら、想像するだけで胸が潰れるほど苦しくなる。
「十に満たない子供がこれほど負傷したなら、死んでいてもおかしくなかったのではないか?」
「それは……」
以前、深い昏睡に陥った時。
永眠にも近いような長い眠りの中で、ルカはこの傷を刻まれた過去の記憶を視ていた。
灼けるように熱い業炎の傷と、凍えるように冷たい極寒の雪。
自分はあの冬の夜に死んでいたのだと、かすむ意識の底で思った感覚は、夢と呼ぶにはあまりにもリアルだった。
アレクシアの言う通り、ルカはあの九歳の時に息絶えていてもおかしくなかった。
助かったのはたまたま紙一重で、ただ運が良かっただけなのだ。
あらためてそう痛感した刹那。ルカはハッとして顔を上げた。
「ありがとう、ルカ」
アレクシアが紡いだのが、感謝の言葉だったからだ。
「生きていてくれてありがとう。死なずに生きて……この地へ来てくれて本当にありがとう」
「アレクシア……」
礼を言いながらも、アレクシアは苦しそうに眉をひそめた。
ルカは先ほど、自分はヴィクトルのように本物の戦場にいたわけではないと言った。
本当に……そうだろうか?
「違う……」
アレクシアは漆黒のかぶりを振って、きっぱりと言った。
「ルカは戦地にいた。残酷で無慈悲な鬼の棲む戦場に」
できることなら、幼いルカに会いにいきたい。
小さな彼を、理不尽な虐待から守ってやりたい。
そんな非現実的なことを、らしくもなく願ってしまうほどには、アレクシアは内心かなり腹に据えかねている。
「……っ!?」
痛覚を失ったはずの皮膚に痺れるような衝撃が走って、ルカの体はびくっと跳ねた。
アレクシアが身をかがめて、傷痕に口づけたのだ。
大きく瞠く水色の瞳に視線を合わせて、アレクシアは強い口調で言い切った。
「私はこの傷を恥だとも、醜いとも思わない。これはルカが戦場を生き抜いた勲章だ」
いつもなら「すき……」とおなじみの鳴き声が洩れるところなのだが、喉の奥が痛いほど詰まって、何も言葉になどならなかった。
好きなのはもはや当たり前すぎることもあるのだが、それ以上に圧倒されていたのだ。
「……君を……」
ただ、アレクシアの言葉に心が震えた。
「君を好きになって、良かった……!」
この世には魔法など存在しないはずなのに。
アレクシアの言葉はまるで魔法のように、傷痕を勲章へと変えてくれた。
過酷な戦場を生き延びたあかしに敬意を払うように、アレクシアはもう一度胸に口元を寄せる。
いたわるように傷に触れる顔を優しく指で持ち上げて、ルカは彼女の唇に食らいついた。
「……んっ……!」
侵入する舌が口内を蹂躙する。
巧みに吸われ、器用に擽られて、アレクシアはくぐもった声を洩らした。
貪るような口づけは、腰が砕けるほど上手いのに、どこまでも甘い。
頬が火照る。呼吸が上気する。跳ねる心臓に翻弄されながらやっと息継ぎをした時。アレクシアはもう手首をつかまれて、敷布に縫い止められていた。
「……ルカ」
見上げれば、陽光を閉じ込めたような明るい蜂蜜色の髪。
月あかりに照らされてきらめく二つの瞳は、まっすぐにアレクシアだけを映している。
アレクシアの唾液さえ一滴もこぼしたくないと美味しそうに舐め取って、喉仏が官能的に鳴る。
ずっと子犬のように愛らしかったはずのルカの顔立ちは今──まるで美しい金色の狼のように見えた。
「愛してる……!」
万感をこめた愛の言葉が、耳元でささやかれる。
胸の奥、ほのかに点っていた火が、燃えるほど熱い炎に変わっていく。
「……アレクシア」
整えられた寝台を乱して広がる黒髪をすくって、ルカは愛おしそうに頬を擦り寄せた。
腕の下で蕩けている顔が綺麗すぎて、理性が溶ける。
可愛すぎて、大切すぎて、誰かと分かち合いたいけれど、決して誰にも見せたくない。
「アレクシア……!」
世界で一番好きなこの名前を、何千回でも、何万回でも呼びたい。
***
明くる日の朝……を通りすぎて昼。
辺境の山岳地帯は昨日に続き、朗らかな春の陽気に満たされていた。
緑の背びれをそよがせて広がる山脈の尾根が、陽光を受けて黄金の色へと染まる。
天球に向かって雄々しく突き上げる黒衣の城は、絵の具を塗り重ねたように重厚にきらめきながら、まぶしい火輪を照り返していた。
「……まだぁ?」
テーブルに頬づえをついて、つまらなそうに尋ねたのはリリーだった。
念入りに清掃を済ませたホールの、丁寧に飾りつけた食卓の中心には、大きくて白い陶磁器の花瓶。
花瓶の中に活けられたたくさんの花々は、エミールとリリーの兄妹が朝一番に野原に出て摘んできたものだ。
はりきって水切りをして、色や取り合わせを考え抜いて、一番大きな花瓶にあふれるほど飾ったら、部屋はまるで野山にいるみたいに春一色、明るく華やいだ。
ルカはきっと喜んでくれるし、アレクシアもきっと褒めてくれる。
二人の反応が楽しみで、待ち遠しくて、エミールもリリーもわくわくと期待に胸をふくらませていた。
しかし。
「……おじょうさまとルカおにいちゃん、まだおきないの……?」
朝食の時間はとっくに過ぎ、太陽はすっかり高く昇りきっているというのに、昨日の結婚式の主役だった若夫婦はいっこうに姿を現さなかった。
エミールもリリーも最初のうちはどきどきしながら、きちんと姿勢を正して待っていたのだが、だんだんと待ちくたびれて退屈しはじめ、足をぶらぶらと揺らしはじめ、今ではすっかり弛緩した上半身をだらりと机の上に投げ出しているというありさまだった。
「つまんない!」
リリーは栗鼠のように頬をふくらませた。
たくさんの祝福とみんなの笑顔にあふれた幸福な結婚式の余韻は、まだリリーの中にはっきりと残っていた。
まるでリリーのお気に入りの絵本に登場する主人公と王子様のような、夢のように美しいハッピーエンド。
ルカが起きてきたら真っ先に飛びついていって、昨日の感想をいっぱい話したかった。
ルカがどんなに王子様みたいで、アレクシアがどんなに綺麗で、二人がどんなにお似合いだったか、感動と興奮をありったけ伝えたかったのだ。
それなのに新婚夫婦の部屋のドアは閉ざされたままで、二人が出てくる気配はいっこうにない。
「リリー、もっとおめでとうって言いたいのに……」
「お疲れでいらっしゃるのよ。ゆっくり寝かせてさしあげて」
子供たちをなだめたのは母のマリーだった。
「そうだよ、リリー。仕方ないよ」
エミールも年上らしく、リリーをさとすように言い聞かせる。
「ね、お母さん。二人とも結婚式で疲れてるんだよね?」
疲れているのは結婚式のせいというよりも……だろうが、そんなことを子供に言えるはずがない。
マリーは言葉を濁しながら、子供たちの摘んできた花にそっと指先で触れた。
鮮やかに咲き誇る薄紅色の花のそばには、いくつもの蕾が今にも開きそうにほころんでいる。
「大丈夫。あせらなくても、時間はたくさんあるわ」
固い蕾が長い厳寒の冬を耐えて、春の日にこうして萌したように。
この地で生まれた恋の蕾は、ようやく花咲く時を迎えたのだから。
「お二人はこれからずっと……一緒なんですもの……」
末端令息と呼ばれた青年は、野蛮令嬢と呼ばれた女性と結ばれた。
一目惚れから始まった想いは、辺境の地で花開いた。
一瞬で落ちた恋は、一生変わることのない愛に育った。
片想いは両想いになり、婚約者になり、夫婦になって。
幸せな日々はずっと続いていく。
『追放された末端令息は辺境の野蛮令嬢に一目惚れする』完
第一部完です。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
この先は書籍化記念SSや、夫婦になってからの第二部があります。
書籍にもご興味を持っていただけましたら、ぜひ発売中の1巻をお手に取ってやってくださいませ!
1巻ものすごく途中で終わっているので…死ぬほど続刊したいです…!なにとぞ…!!!
『このライトノベルがすごい! 2027』にもご投票いただけたら嬉しく思います。
よろしくお願いいたします!!!




